エビカニ倶楽部

モクバヒメヤドカリ

甲長 3mm

 水納島の主要ダイビングポイントはどこも白い砂が広がる海底で、そこに「根」と呼ばれる岩が点在している。

 根は大きいモノでも6畳ほどと小さいのだけれど、そこは砂漠のオアシスのように小魚たちが集まり、大きな魚も暮らしている。

 そういうポイントでフツーにダイビングをする場合は、そんな根をいくつか巡ることになるため、白い砂底を移動することになる。

 多くの一般ダイバーにとっては、途中の白い砂底はあくまでも白い砂底でしかないのだけれど、変態ウィルスに毒されてしまった一部の人たちは、その砂底で目を皿のようにしてサーチすることになる。

 具体的にそこに何がいるというアテなどなくとも、きっと何かいるという変態期待値は高い。

 かくいう私もそうやって砂底をサーチすることを無上のヨロコビにしており、サーチ効率をよくするために、リンカーン・ライム(※架空の人物です)が推奨するところのグリッドサーチを実践している。

 砂底を碁盤目状に縦横に繰り返しサーチすることによって、ナニモノも見逃さないぞ!というわけだ。

 そんなサーチの甲斐あって、ただボーッと根から根へ移動するだけでは気づけない数々のクリーチャーたちと、これまでに何度も出会えている。

 この小さな小さな、もひとつおまけに小さなヤドカリさんとの出会いも、そんなグリッドサーチの賜物…

 …と言いたいところながら、実はモクバヒメヤドカリは、もっぱら春を中心に、砂底上のそこかしこで観られるのだった。

 90年代半ば、水納島で毎日のように潜るようになった当初からその存在には気がついていたものの、いかんせん小さすぎ、フツーにマクロレンズで撮ったフィルムをルーペで見ても何もわからない…と諦めていた。

 ところが世紀が変わると、撮った画像を直後に手軽に大きな画面で確認できるデジタルの時代になった。

 だんなのお下がりのセットを使えるようになった2012年の4月、ヤデウデシヤとばかりにさっそく撮ったのがこれ。

 いくら手軽に大きな画像で見られるとはいっても、その前にちゃんと撮んなきゃダメってことを学んだのだった…。

 それにしてもこのヤドカリさんの小さいことといったら。

 ↑この写真に写っている砂粒は細粒中の細粒、いわばスーパーファインな砂粒なのに、まるで小石がゴロゴロしているようにさえ見えるほどヤドカリが小さい。

 そのなかでもさらに小柄なものを人差し指の先っちょと比較してみると、こんな感じ。

 ほとんど絶望的なまでに小さいんだけど、それでも砂底上にあるこういった貝殻は、なんだかんだいっても砂粒とは違って見えるし、いるときはそこかしこにいるものだから、けっこう気づく。

 しかもこのヤドカリ、わりとピコピコピュンピュン砂底を動き回るのだ。

 おかげで目の端でその動きを捉えることができ、姿を確認できる。

 小さすぎるから肉眼ではまったく見えない特徴としては、眼柄や第1触角の赤いラインや…

 各脚に縦に走る黄色っぽい線なども。

 これらの特徴が揃っている激チビヤドカリは、モクバヒメヤドカリである、ということにした。

 パッと見で体の芯(?)のあたりが赤いのが特徴と思っていたら、↑このように白っぽいものもいる。

 白っぽ過ぎて、眼柄の赤いラインも脚の黄色っぽい線もほとんど見えないのだけど、だからといってウスイロヒメヤドカリでもなさそうだから、これまたモクバヒメヤドカリ認定。

 いずれにせよ小さいからファインダーを覗いていてさえ確認できるものではないので、ひょっとしたらよく似た別の種類なのかも…とも思いつつとりあえず撮って撮って撮ってみても…

 それらはすべて、私が認定しているところのモクバヒメヤドカリなのだった。

 「いるときにはワッといるけど、いないときにはいない」という印象があるモクバヒメヤドカリ、これまでに撮った画像を見てみると、撮影時期は4月~6月の間に集中していた。

 繁殖に関わる大集合の季節なんだろうか、それとも単に私がヒマな時期だからだろうか。

 そういう時期には、彼らがちゃんと社会生活を送っている様子もうかがえる。

 何かを巡って争っていたり…

 仲良さげにコミュニケーションをとっているっぽかったり。

 激チビとはいえ、春には出会う機会が多いモクバヒメヤドカリ。

 こんなに多いにもかかわらずそのアカデミズム変態社会でのデビューは比較的新しく、2009年になってようやく新種記載されたようだ。

 ということは、かつてフィルムを使っていた頃に無理矢理このヤドカリをでっかく写るように撮ったところで、その正体は何を調べても突き止めるすべはなかったってことか…。

 逆い言えば、海中の塵芥よりも小さなこんなヤドカリにまで学名と和名がつけられているんだもの、ステキな変態社会になった…ということなのかもしれない。