心地よさげなジョガーや歩行者がさして広くはない歩道を通行するなか、先ほどの駅伝ファイアーマンたちが流星のように駆け抜ける。
すると、ゼッケンの種類が違うランナーたちも。
違う大会が始まったらしい。
皇居外縁って、ランナーだらけだ。
桜田濠沿いの歩道を歩いていると、三宅坂とか半蔵門とか、よく耳にするところを通る。
半蔵門といえば、地下鉄の名称では知っていたけど、本当にそういう門があって、今も残っているとは知らなかった。
ところでこの半蔵門、伊賀忍者服部半蔵の門だったりして……
などと、愚にもつかないことを想像していたら、なんとなんと、それは愚にもつかないどころか本当の話だった。
半蔵門という名は、この門を警備していた徳川家臣・服部正成、正就父子の通称「半蔵」に由来していたのだ。門外には、服部家の与力30騎、伊賀同心200名が組屋敷を構え、四谷へと通じる街道沿いは旗本屋敷で固められていたそうな。
つまり今我々がいるここ半蔵門外は、服部半蔵影の軍団たちの住処だったのである。
服部半蔵といえば、影の軍団。影の軍団といえば千葉真一&ジャパンアクションクラブである。
この世を照らす光あらば
この世を斬る影もあると知れ。
フーッ!!千葉真一カッコイイッ!!
あれ?でも「影の軍団4」では、服部半蔵率いる影の軍団が井伊大老を暗殺したんじゃなかったっけ?? <それはテレビの話です。
18代目服部半蔵が半蔵門から出てきた。<ウソです。
ちなみに、江戸時代から続いていた半蔵門はアメリカ軍の空襲で焼失している。現在の半蔵門は和田倉門の高麗門を移築したものだそうで、天皇家の人々の日常の出入り口として使われている門でもある。
この先がちょっとした公園になっていて、そこのベンチでちょこっと休憩。するとこの公園の名前が、耳にしたことがある名前であることに気がついた。
千鳥が淵だ。
〜♪
九段下の駅に向かう人の波
僕は一人涙を浮かべて
千鳥が淵 月の水面 振り向けば
澄んだ空に 光る玉ねぎ
柏の稿ですでにバレていると思うけど、学生の頃の僕は爆風スランプが好きで、カラオケでもよく歌っていた。もちろん、この「大きな玉ねぎの下で」という歌もレパートリーの一つだった。歌詞の内容とはまったく関係なく、よく熱唱していたものだ。
とはいえ、そこで歌われている情景が、田舎モノにイメージできていたはずはない。
大きな玉ねぎというものが、武道館の屋根の天辺のことだということはかろうじてわかってはいても、九段下がどこなのか、千鳥が淵とはなんなのか、そこから振り返った玉ねぎはどう見えるのか、ということは何もわかっていなかったのである。
その千鳥が淵がいま目の前に!!
この先に行けば、千鳥が淵越しにあの大きな玉ねぎが見られるのだ。
が。
ここでさらに北の丸公園の大外までまわる時間が、我々には残されてはいなかった。今宵のイベントのためには、時間的にこの千鳥が淵交差点でマラソンコース同様に乾門方面に曲がらざるを得なかったのである。
ああ、今宵のイベントさえなければ………(?)。
というわけで、この先にあるはずの田安門も清水門も見ることはできなかった。清水門外に鬼平・長谷川平蔵の火付盗賊改の役宅があったそうなので(実在)、足を運んでみたかったんだけど…。
それにもまして、千鳥が淵沿いに大きな玉ねぎを見られなかったのは極めて残念!!
………と思っていたら。
その後別の場所から眺めてみると、なんと大きな玉ねぎは……
改修中なのだった。
ケーブルカーといい、矢切の渡しといい、この玉ねぎといい、いったいなんなのだ!?
…単にシーズンオフってことか。
この千鳥が淵周辺には、桜の木がこれでもかというほどに植えられてある。
さぞかし春は見事な眺めなのだろうなぁ……来てみたいなぁ………
無邪気にそう思った我々だったのだが、地元の人(コスゲさんともいう)にうかがったところ、
「とてもじゃないけど、人だらけで桜どころじゃないですよ」
さすが東京、混むのは当然なのだった………。
さて、千鳥が淵で右折し、代官町通りを進んでいると、その右脇はずっと皇居の分厚く高い塀が続く。
その塀にもやはり……
衛士がいた。
この写真では小さくて読めないけれど、元写真を拡大してみると、交番のような建物には、
皇宮警察本部 吹上護衛署
梅林裏警備派出所
とあった。
で、この字が読めるくらいだから、衛士の顔もよく見える。その顔は……
……カメラ目線だった!!
やばい……ブラックリストに載ったらどうしよう??
……ということにならないように、いかにもランナーを撮っているかのように撮っていたりする。
トリミング前の写真
それにしてもこの衛士、こんなところに毎日つめていたら、やることなさ過ぎて大変だろうなぁ。
いや、ひょっとすると、ニュースにすると模倣犯が出てきて大変だから表沙汰にならないだけで、けっこうこういう塀から侵入しようとか塀に落書きしようとかする変なヤツって多いのかな??
この通りをさらに進むと、北詰橋門・皇居東御苑入り口なるものがあった。
北詰橋からの眺め。高いビルなどひとつも無い。もちろん濠には鴨がいた。
はて、東御苑とはなんぞや?<すまぬ、その程度のことも知らなかったのだ。
無料というので入ってみたら、ビックリたまげた門左衛門!!
東御苑って………
………江戸城跡地だったのだ!!
え゛―ッ!?
無知をさらけ出すことを厭わず書くけれど、僕はこれまで、現在の皇居って、明治になって、江戸城の跡に造られたものだとばかり思い込んでいた。
ところが、宮殿こそ西の丸跡に建てられているものの、さきほどその脇を通った吹上御所は、江戸城の城郭とはまったく別の場所だったのだ。
そしてそして、その江戸城城郭跡地は、なんと一般に公開されていたのである!!
……まったく、まったく知らなかった!!
北詰橋門からすぐのところに、天守台があった。
天守台
江戸の昔には、ここに天守閣があったのである。
……と思っていたら、ここに天守閣があったのは3代将軍家光の頃までだそうで、彼が最終的に国内最大の巨大天守閣を建てたわずか10年後に、立派な立派な天守閣は明暦の大火事の煽りを受けて焼失、以後二度と再建されることはなかったそうだ。
ちなみに、再建しようという話も出るには出たそうなのだが、頑なに再建を先延ばしにし、結局再建させなかったのは、ほかでもない、4代将軍後見職であった保科正之(会津藩藩祖)その人。
その理由がまた素晴らしい。
「天守閣再建にかかる費用は、焼け出された庶民の救済に回す」
こういう善政を施す人がいる「封建社会」と、現代日本のカスのような政治家しかいない「民主主義社会」と、いったいどちらが国民にとってシアワセなのだろうか。
現在、一部では江戸城天守閣を再建しようなどという話もあるらしい。
いったいどういうお金を使うつもりでいるのか、見物である。
ちなみに保科正之は、こういう事例でもわかるとおりかなりの良心的実務家で、異母兄家光の遺言どおり、幼い4代将軍家綱の補佐役として遺憾なくその能力を発揮、この後長きに渡るパックス・トクガワーナの礎を築いた日本近世史上の巨人なのである。ユリウス・カエサルがその基礎を作り、初代皇帝アウグストゥスが形にしたローマ帝国を、磐石なものにした2代皇帝ティベリウスのような人だったのだ。
その保科正之の会津藩にある会津若松城、すなわち鶴ヶ城は、江戸城とは比べ物にならないくらいに小さい。それは、鶴ヶ城が一大名の財力で造られているのに対し、江戸城は多くの大名の協力事業だからである。
豊臣恩顧の外様大名を経済的にわざと疲弊させる意味もあったとはいえ、そういった国を挙げての城作りを天下普請という。江戸城に次いで大きかった名古屋城も同じく天下普請ながら、江戸城の総構え全体の面積は名古屋城の3倍もの広さがあったそうだ。
画像はウィキペディアから転載
この外側のラインが外濠だったわけだから、そりゃ広いはずだわ……。
我々が歩いてきたのは内側のお濠、だからこそ内堀通りと呼ばれているのだった。
さて、我々はその内堀の内側にある天守台にいる。
さきほどの武道館の玉ねぎ改修中はここからの眺めである。
ちなみに、天下普請のおりにここで初代天守台を担当したのは、あの黒田長政。かつて秀吉の軍師となって活躍した黒田官兵衛の息子である。関ヶ原合戦において家康に与し、豊臣恩顧の諸大名に家康方につくよう説得して回った彼の功績をたたえ、家康は戦後、長政の手をとって礼を言ったそうである。
それを息子長政が手柄話として嬉々として話すのを聞いた父・官兵衛が言ったセリフはあまりにも有名だ。
「そのときお前の左手は何をしていたのだ?」
その場で家康を刺し殺せばよかったのに、という意味である。
官兵衛このとき53歳。
彼は彼で、天下は再び騒乱の時代となり、家康亡き後さらに混乱する天下を収拾するのは自分である、ついに自分の出番である!!という野望をひそかに持っていたらしい。
まさか息子が逆側で働いていたとは………。策士もそこまでは見えなかったようだ。
現在の天守台は、暴れん坊将軍吉宗によって天守台だけ再建されたものだそうで、そこから見下ろす江戸城本丸跡は、それはそれは広かった。
跡地も広ければ空も広い。
春うららのこの日、人もまばらな東御苑は、ここだけを見たらとても東京とは思えないステキな場所だった。
この2日後に行くことになる会津若松城の稿で書いたとおり、僕はそれまで殿様が住む本丸というのは天守閣にあるものと思い込んでいたのだけれど、天守閣と本丸というものが別であるというのは、この江戸城跡に来たこのときに初めて知ったのだった。
その本丸跡も、当然ながら鶴ヶ城よりも圧倒的に広い。
そして、皇居東御苑なのだから当然とはいえ、鶴ヶ城とは違って宣伝の幟など一本もない。
なんとも清々しい公園である。
冬枯れで茶色になっている芝部分が本丸跡
池波正太郎も書いている。
東京からどこかへ遷都するという議論があるけれど、首都機能がどこかへ行ってくれるのは願ってもないことながら、この皇居だけはそのままにしておいていただきたい、と。
皇居についていろいろ言う人がどれだけいようと、少なくとも東京のど真ん中にこれだけの緑と人々の憩いの場を残しえたのは、ひとえにここが皇居だからにほかならない。
さて、本丸といえば将軍夫妻の住まいで、この本丸跡地の手前側、松の木が生えているあたりが、大奥があったところになる。将軍様をはじめとする殿方が普段いた「表」は、こちらから見ると跡地の向こう側だ。
つまり、大河ドラマ「篤姫」で、篤姫が意を決して家定のところへ歩いていったときは、本丸跡地の松のところから向こうの端まで着物を引きずってソソソソソ……と歩いていったのだ。
けっこう遠い………。
ちなみにこの本丸は、家定が死んで篤姫が落飾し天璋院となってから後にあった、二度に渡る火災で焼失している。
この本丸跡地の、ここから見ると先のほうを少し右に逸れたところに、江戸城内でここ以上に有名な場所はないだろうという場所があった。
ご存知松の廊下。
忠臣蔵の物語は、すべてはここから始まった。
この松の廊下もまた、僕はずっと天守閣にあるものと思い込んでいた。まさかこういう場所にあったとはなぁ……。
通称「松の廊下」は江戸城内でも2番目に長い廊下だったそうで、板張りではなく畳敷き、そして襖には松と千鳥の絵が描かれていたそうな。
ちなみにこの写真は両国の江戸東京博物館にある模型を撮った人の写真を転載している。
なにぶん時間がなかったので、両国近辺の模型以外ろくろく見ていないのだ。
もう少し江戸城コーナーをつぶさに見てみたいなぁ……。
でもこの巨大博物館、バブル期の計画だったこともあって、現在も無駄だらけで、都政をかなり圧迫しているらしい。
庶民救済のために天守閣を建てなかった保科正之が都庁やこの博物館を見たら、いったいなんと言うだろうか………。
ベンチで休憩しつつ、テクテク歩き、富士見櫓や百人番所などを見つつ、大手門へ。本来ならここから入るべきだったのだろうけど、そもそもこういうところがあること自体知らなかったのだからしょうがない。
で、大手門から出て、橋を渡る途中に、ここ皇居東御苑が開園中であることを示す看板の裏は、こうなっていた。
ゲゲゲッ!!
この日は土曜日。もし昨日来てたら、思いっきり休園だったじゃないか!!
うーん、ビミョウなところでついているのかも……。
この大手門を、濠の対岸から眺めてみた。
日本のお城って、やはり美しい。
21世紀の今日になっても、欧米人から見た日本人のイメージはなおも「チョンマゲ」「侍」のようだけど、首都のど真ん中にこういう風景があるのだもの、それはいい意味で当然なのかもしれない。
あれ?
それにしても右端にいるうちの奥さんの視線は何か違うような気が……?
アッ!!
鯉がいたのだった……。
まったくもう、彼女にとっては、花より団子、門より動物。
最初から最後までずっとこの調子なのだ。
鯉や白鳥や鴨や鵜がのんびりここで暮らしていられるのも、皇居のおかげである。そういう意味では、うちの奥さんにとってもステキな場所を提供してくれている。
この後少し内堀通りを歩いて辰巳櫓を拝見し、皇居一周散歩は終わった。
人生初の皇居探訪は、超個人的な意外な発見、新知見が相次ぐ楽しい散歩だった。
さてこの後は!!
和田倉門の大きな通りを通って、その先へ。
今回の江戸名所図会ならぬ江戸名所図えッ!?の最後を飾る、あの場所へ行く。 |