16・堀内散歩
指月山に城ができると、鄙びた田舎だった萩は、たちまち城下町となった。 土地が限られている日本では多くの場合、近代化とともにそういった城下町は根こそぎ姿を変えていく。 ところが萩は、欧州の主要都市のように、城下町の町割りを「旧市街」的にほとんどそのまま残しつつ近代化していった。 そのため江戸の昔の古地図を見ながらでも、今現在の町を歩けるほどだという。 その背景には、2つの川に挟まれたデルタ地帯である萩がもともと大湿地帯だった、という事情がある。
デルタ地帯の中央部はあまりにも湿地帯すぎ、藩政時代はずっと手つかずのままだったために土地が大いに余っていたそうで、明治以降の近代化にともなう官公庁その他の「新市街」を、その広大な手つかず地域を利用することで造り出すことができたのだった。 おかげで圧倒的に往時を偲べる町並みが後世まで残り、城下町は「観光地」に変身。 それに伴い、石垣や土塀、古い屋敷などを精力的に保存してきた萩の町は、その努力が実ってユネスコの世界遺産に登録されることとなった。 もっとも、世界遺産登録のお題目は「明治日本の産業革命遺産」というもので、いまいちピンと来ないけど……。 世界遺産うんぬんはともかく、町並みは消え去っているのにお城(天守閣)だけある都市よりも、天守閣は無くとも町並みが残っているほうが歩く分には素敵だ。 指月城跡を出て、そんな萩の城下をテケテケ歩く。 城下町は計画的に作られるから、道は東西南北とも見事に一直線だ。
なので、目的地さえはっきりしていたら、わかりやすいことこのうえない。 しかし我々はさして明確な目的地などないまま歩いているから、見どころだらけの町だというのに、観光客として観るべきところを観ず通り過ぎていく可能性は高い。 上の写真のお向かいに、やたらと長大な土塀が続いていた。
石垣に立派な土塀、歴史的にさぞかし有名な何かに違いない…… …と確信しつつ、とんでもなく長い一直線の道を歩いていると、途中に重厚な格子状の門があった。 内側を覗いてみると、そこは…… ……テニスコートまである広大なグランドなのだった。 土塀に囲まれているグランドなんて、初めて見たかも…。 門からもう少し先にある入り口には、なにやら碑がある。
なんとここは、県立萩高校の同窓会が寄贈した野球場だった。 しかも同窓会は財団法人になっている。 同窓会が法人かぁ……と驚いたのだけど、チョコッと調べてみたところ、近年は全国的に同窓会の一般社団法人化が進んでいるんだって。 知らんかったなぁ……。 …って、とりあえず「萩の町の観光」とはまったく関係ないんですけど。 県立萩高校はそのお向かいにあった。
体育の授業らしく、男子生徒がサッカーをしていたこのグランドのキワの石垣や、同窓会寄贈のグランドの石垣&土塀は、グランドを造るにあたって新たに設けたのだろうか。 そうだとするならそれは景観に配慮してのことであるのは間違いないとして、それはこの地域に義務付けられていることなのなら、ただ住むだけでも大変そうだ。 我々はその努力の恩恵に浴しつつ散歩している。 町並みといえば、外堀の内側のこのあたりは堀内と呼ばれる地域で、萩城の構造的には三の丸にあたり、藩政時代は長州藩の上級武士の屋敷があった地域、すなわちブルジョワ区画だそうだ。
なので昔のまま残る敷地は、やたらと広大だ。 ただし幕末になるとすでに山口に政庁を置いていたうえに、明治維新後県庁は山口になったから、それまで萩のブルジョワだった方々の多くが萩の地を去ったという。 家屋や石垣&土塀が残されたままの広大な敷地の多くが、無人になってしまったのである。 おそらくそのまま放置していたら、何もかも朽ち果てるに任され、町並みが保存されることはなかったかもしれない。 ところが、萩にそのまま残ることとなった武士=失業者の方々の中に、無人となった上級士族の敷地を、とある作物の生産場所にする、ということを思いついた人がいた。 上級士族であり、幕末には要職を歴任していたにもかかわらず萩に残った小幡高政が、失職武士たちのための事業として栽培することにした作物とは……… 夏みかん。 もともと薬味的な需要でジャブ的に萩で作られていた夏みかんを大々的に産することによって、新たな産業を興したのだ。 これにより、職を失っていた藩内士族の雇用が生まれ、無人となった敷地も有効利用されることに。 いわばブルジョワエリア堀内の町並みは、夏みかんのおかげで今に至るまで保存されている……… ……という話を知ったのは、これまたブラタモリ。 萩といえば萩焼だとばかり思っていたら、萩=夏みかんでもあったのですね。 なので萩のマンホールにも……
夏みかんが。 そんな夏みかんがたわわに実っている風景を観てみたい。 でも真冬に訪れるとなるとそれは望めないか…… …とオロカなワタシは思っていたのだけれど。 夏みかんて、他の柑橘同様冬に鈴生り……。
調べてみると、冬の夏みかんは酸味が強すぎ生では食べられたもんじゃないそうな。 ところがそのまま夏まで置いておくと酸味が抜けてほどよくなるそうで、夏に味わえる柑橘類として明治後に一躍評判になったとか。 植物学的に正式な和名はナツダイダイというらしい。それも「橙」ではなく「代々」という字を当てるのが本来の意味で、新たな職として夏みかん生産者になった旧武士の人々が、末永く代々続くようにと願いを込めた名前だそうだ。 ところが萩の特産品となって販売網が広がり、大阪商人から「名前、夏みかんにしとくんなはれ」と名称変更要請されてしまい、以後今日に至っているという。 ま、たしかに夏代々よりは夏みかんのほうが語呂がいいかも。 というわけで、この季節は生食には向かない夏みかんながら、これがもうそこらじゅうにたわわもたわわ。
栽培地が整えられてからは旧上級士族屋敷跡の夏みかんは「名残り」としての存在になっているのか、現在はかなり放置プレイのようで、まるで沖縄の民家のパパイアのように、実が無造作に落ちまくっているところもあった。
どこで目にしたんだったか忘れたけれど、田舎道のガードレールが他では見られない色だったので不思議に思っていたところ、それは1963年の山口国体開催に合わせて、ガードレールを夏みかん色に塗り替えたからだそうな。 萩、徹底的に夏みかんなのである。 土塀の上にたわわに実る夏みかんを眺めながらまっすぐ歩いていると、やがてなまこ壁の立派な建物が見えてきた。
口羽家という、長州藩でも屈指のお家柄だった上級武士宅の表門だ。 萩城下の上級武士宅としてはかなり古いものだそうで、歴史的建築物としても相当貴重らしい。 100円払うと入ることできる敷地内には主屋も残っていて、その座敷からは近くを流れる橋本川や対岸の玉江地区を眺めることができるそうだ。 それはさておき、職員の方なのかボランティアなのか近所にお住いの方の日常なのか、ご婦人が排水溝のお掃除をされていた。 この時は初見だったので特に意識はしなかったのだけど、このあとこのような清掃活動を何度も目にすることになる。 この口羽家住宅のところ左に折れ、もう少し歩くと堀内鍵曲というところになる。 そこに至る道もまた一直線の道で、土塀&石垣が続く…… ……はずのところ、その途中がこういうことになっていた。
土塀修復中。 以前に撮影された写真を見ると、ほんの少し前までここは石垣のみで、その向こうが鬱蒼と茂る林になっていたようだ。 ということは修復というよりも、あらためて造っているといったほうがいいのかも。 水糸を張ってキチンと水平をとり、間に強度を持たすためなのか瓦を敷き詰めつつ、頁岩層のように土塀の素(?)を重ねていく作業のようで、トラックには土塀の素がたっぷり積まれていた。
最終的には↓こういう塀になるのだろうか……
お仕事中のところ申し訳ないけど職人さんに尋ねてみると、すぐ向かいの白塗りの土塀を指さしつつ、「ああいうふうになるよ」と教えてくれた。 春には輝くばかりに真っ白な土塀ができていることだろう。 今の日本で往時の土塀を造れる職人さんがどれくらいいるのか知らないけれど、萩は相当その密度が高そうだ。 土塀工事中のお向かいも立派な石垣&土塀。しかしそこは現在武家屋敷跡でもなんでもなく、フツーに人々の暮らしの場なので、車が止まっているし……
学習塾もある。
そしてまた路上が綺麗なことといったら。 ゴミひとつ落ちていない……といったら多少は誇張ながら、ビックリするくらいにとにかく道が綺麗だ。 こまめに清掃している様子がうかがえる。 ここの突き当たりが、堀内鍵曲。
そこらじゅう一直線の町割りとはいえ、いざ敵の侵入を許した場合に攻め手の進軍を容易にさせないよう、要所要所に自動車教習所のクランクのようになっている場所がある。 それを鍵曲(かいまがり)と呼び、堀内鍵曲は往時の様子をそのまま今に残しているそうだ。 さっそく我々も鍵曲がってみる(そんな動詞はありませんが)。
来た道を振り返ってみると……
おお、角から侍が歩いてきても不思議はないくらいのタイムスリップ感。 実際時代劇のロケにもよく使われているという。 だからだろうか、口羽家住宅の少し前あたりから舗装方法も砂っぽく見えるような造りになっている。
この突き当りで砂っぽく見える舗装は終了し、フツーの舗装道路になる。 そして土塀も……
突如ザンネンな造りに。 江戸の昔から、この家だけ貧乏な上級武士だったんだろうか。 ここからまた東西方向に一直線の道になる。 その道の途中にあるのがこちら。
旧明倫館跡。 明倫館といえば長州藩が誇る当時全国屈指の文武教育機関で、藩内から広く人材を発掘・育成すべく、身分の上下を問わず(といってももちろん士分限定だけど)門戸を広くした藩の学校…ということで知られている。 でも明倫館がそのような体制になって現在の萩市役所の前にて開校したのは嘉永2年、ペリー来航のたった4年前のことで、そうせい候こと毛利敬親が藩主になってからのこと。 それ以前の明倫館の門戸は狭く、藩士のなかでも上級武士を対象としていて、藩校の場所も萩の山の手こと堀内地区のこの場所にあった。 というか、観光地としてはよほど有名な後年の明倫館跡を我々はまだ訪れていないというのに、先にこっちに来てしまった。 ま、順番的にはそれでいいのか…。 そのままさらに歩くと、土塀はあるもののその内側は現代風のアパートだったり民家だったりするゾーンになる。 だからだろうか、土塀の傷み具合が随分進んでいた。
集合住宅だと、じゃあいったい誰が費用を負担するの?って話になるだろうし、たとえ一軒家でも、景観のために多額の自腹を切るのはつらいところだろう。 萩市には補助金制度でもあるのかなと思ってちょっと調べてみたところ、萩市のウェブサイトでちゃんと掲載されていた。 ここの土塀が上記リンク先のどれに当たるか不明ながら、この状態で放置プレイってことは、補助金では賄えないってことなのだろうなぁ…。 暮らすにあたって景観的制限がありつつ、だからといって満額補助ってわけでもないとなると、厳しいこともたくさんあるのだろう。 更地だったり空き家になっているらしきところでは、↓こういう看板もちょくちょく見かけた。
加速度的に過疎化が進行する日本の地方こと、そのうえ厳しげな義務も加わるとなれば、この地で新たに暮らし始めるには、ケヅメリクガメをペットショップで購入する時と同じくらい、相当な意思と意識が必要とされるに違いない。 さて、一直線の道がようやく突き当たりになり、さらに南下する前に、ちょっと北側に歩くとまたなまこ壁の建物がある。
旧児玉家長屋。 ムツカシイ話は説明書きに任せよう。
ちなみに幕末に「志士」として活躍する長州藩士の中ではわりと上流階級に入る高杉晋作の高杉家ですら150石というから、年収2,243石ともなれば相当な大身だ。 さすが萩の山の手、堀内。 で、そういう大身の武家の長屋というものはいったいどういう役割の建物なのか、ということまでは説明してくれない。 この児玉家長屋のように道路に面して造られている長屋には重厚な門が設けられていて、長屋でありながら屋敷の出入り口の門になっているこのような構造物を「長屋門」というそうで、江戸時代の武家屋敷にて多く造られたらしい。 なのでおそらくこの建物も、正しくは「児玉家長屋門」なのだろう。 出入り自由のようで、重厚な門が開放状態だったから入ってみた。
入ってみると、外側がなまこ塀の仰々しい建物とは思えないほど、なんともフツーに長屋だった(かなり長大ではあるけれど)。
長屋には、屋敷の主ではなく、その家の家臣たちが暮らしていた。ここに住まう家臣たちの住まいも給料も年収から賄うわけだから、ブルジョワのおうちはそれはそれで何かと相当物入りだったはず。 そんな萩の山の手・堀内は萩城外堀の内側の区域で、往時は外堀を渡って堀内に入るための橋は3本しか無かったらしい。 それぞれの橋の手前には城郭防御のための総門があったそうで、明治後はすべて「跡」になっていたところ、現在は北の総門だけ復元されている。 そんなたった3本だけしかなかった三の丸への入り口のひとつが、この児玉家長屋からすぐのところにあって、今でも往時のままの橋が外堀(新堀川)に架かっている。
平安橋というこの橋は、当初こそ木製だったそうなのだけど、江戸の半ばに現在の石造りの橋になったそうだ。 石材は玄武岩だそうで、さすが付近が火山だらけの萩、周辺各地域で火山岩が豊富に産するらしい。 総門は跡しか残されていないものの、3つの入り口のなかで橋がそのまま残っているのはここだけ。 小なりとはいえ日本の百名橋に名を連ねる実力の持ち主だ。 その橋上から西側、橋本川の方向を見ると、フツーに町を流れる川。
ところが西側、橋本川のほうを見ると……
いかにも現代のお堀ってな感じ。 ところで、上の写真にもある刈ったばかりチックにきれいに刈り揃えられている生垣、ここに限らず萩の町を散歩している間そこらじゅうで目にすることになる。 これもまた景観に配慮した町の美化意識の賜物なんだろうけど、今は亡きウメおばさんのようなヒトが今もたくさんいらっしゃって、いい加減な作業を許さないよういつも姑チェックが光っているのか、はたまた「生垣バリカンの日」が定められていて皆が一斉に剪定する日が設けられているのか……。 あまりにも見事に調えられているから、ずっと気になって仕方がなかった。 ともかくもこの平安橋を渡ると、ここから先は平安古(ひやこ)と呼ばれる地区になる。 時刻はまだ10時過ぎ。 散歩はまだまだ続く。
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