10・新世界紀行〜通天閣・1〜

 明けて2月5日。
 今朝も快晴である。沖縄出発前に見た週間天気予報はいったいなんだったのだろうか。ひょっとしてこれも厄除けのご利益か??

 例によって母による至れり尽くせりの朝のひと時を過ごした我々は、今日も出かける。
 そう、この日こそが今回の帰省のメインイベント、新世界探訪なのだ!!

 先にも触れたけれど、僕がこれまでずっと抱いていた新世界のイメージといえば、それこそ東京の山谷のようなイメージで、大阪弁の丹下段平がいたとしてもなんら不思議はない場所だった。
 僕の中では完全に、日雇い労働者たちの街だったのである。
 どうやらそれは、新世界のすぐそばにある釜ヶ崎、いわゆる「あいりん地区」と一緒くたになってしまっているのだろう。
 あいりん地区といえばそれこそ東京の山谷、横浜の寿町のようなところである。
 ここで暮らしている日雇い労働者たちのものすごいところは、時として国家権力に対し暴動を起こすことである。警察相手に力勝負をするのだ。
 ちなみに、じゃりん子チエちゃんの舞台はこのあたり。

 そういったイメージと一緒くたになっていたのだから、18歳までしか大阪に住んでいなかった僕が、新世界=コワイところというイメージを抱いていたのも不思議ではない。

 また、動物園といえば上野でも多摩でもなく天王寺動物園だった子供の頃の僕にとって、この界隈は避けては通れない場所だった。動物園前駅からの道々には、今と違ってテント生活者も随分いたので、子供心に深く立ち入ってはいけない場所……とインプットされたようである。

 ところが、いつの間にかこの新世界界隈というのは、大阪を訪れる観光客にとって、実に魅力的な、大衆文化中の大衆文化といってもいいくらいの繁華街であるらしいことがわかってきた。
 普通そういう界隈は、今の世の中だとすぐに観光=グルメという図式にのっとって観光地化してしまい、地元の方々のための場所がすっかり観光客のものになる、ということが往々にしてあるものだ。

 ところが、別府がどれほど観光地化しようとも竹瓦温泉が地元の人たちの温泉であり続けるように、たとえ観光客が来ようとも、新世界はやはり新世界のままであるらしい。

 それやこれやでとにかく今では、新世界でどて焼きを食べるなんてことが、暇な時期の民宿大城に泊まって沖縄を実感するのと同じくらい、ディープな大阪の楽しみ方のひとつになっているのだ(観光雑誌的には、今もなおまるでナイロビであるかのような書き方をしているものもあるらしいけど……)。

 また、この界隈ならではのB級グルメに舌鼓を打ったあらゆる人が、よかったよかったと褒めちぎるのである。あの、何かと味にはうるさい違いのわかる男ですら、自身初の新世界探訪時には、その雰囲気とテイストを存分に味わったというくらいだ。

 まがりなりにも大阪生まれの大阪育ちを標榜する僕が、このままその「ディープな大阪」を知らずにいられようか。

 だから、新世界は僕にとって文字通り新世界なのである。
 もちろんうちの奥さんにとっても。

 その新世界のシンボルが通天閣である。
 高々と聳え立つ、大阪のシンボルといっていいタワーだ。
 サザエさんオープニング制覇計画のうえでも、ここははずすわけにはいかない。

 富田駅で普通電車を待っていると、1時間にそれほど何本もくるわけではない天下茶屋行き各駅停車が最初にやってきた。梅田行きに乗って、途中の淡路駅で乗り換えなければならないところだったものが、このおかげでのんびりと一本で行けた。
 これも厄神様のご利益か??

 動物園前駅の手前、恵美須駅で降り、通天閣方面の出口を出ると………

 おおっ!!

 通天閣だ!!
 駅の出口は、まんま通天閣本通りの入り口だった。
 大阪市内の下町を舞台にした映画やドラマには欠かせない風景が目の前に!!
 まだ午前中の早い時間帯だったので普段の賑わいの気配すら感じられない商店街。そこをまっすぐ歩くと通天閣の真下にたどり着く。

 で………でかい。
 思っていたよりもでかいぞ、通天閣。
 勝手に思い描いていたイメージよりもはるかに威容を誇っているではないか。

 昔はこの真下の地下に有名な通天閣囲碁・将棋センターなるものがあったらしいのだが、残念ながら2001年に閉館になったそうだ。今では歌謡劇場だけが残っている。
 残念ながらといいつつも、通天閣といえば将棋の坂田三吉…………と連想できるのは、ギリギリ僕らくらいの世代までなのだろうなぁ、きっと。
 王将の碑を見忘れるくらいだから、僕もそれほど強い思い入れはない。


これが有名な王将の碑<ウソです。

 そもそも僕らの世代くらいからは、通天閣ときて坂田三吉とくれば、真っ先に思い浮かべるのは大阪代表通天閣高校のエース、坂田三吉であろう。
 神奈川代表として甲子園出場が決まった明訓高校の山田太郎に、坂田三吉という投手を警戒すべきことを伝えるため、あの東海高校の豪腕・雲竜が、ピッチャープレートの1mほども前から投げてその剛速球ぶりを見せつけたほどの本格左腕投手である。
 ちなみに、そのさらに1m前から雲竜が投げて見せたのは、鳴門の牙こと土佐丸高校のエース・犬飼のイメージを山田太郎に植えつけるためだった。<なんで高知代表なのに「鳴門」の牙なのだろう??

 その坂田三吉の通天閣高校と山田太郎の明訓高校は、くしくも一回戦で対戦することになる。
 坂田三吉の速球対山田太郎の打撃も見物だったが、誰もが記憶に留めているのが、坂田三吉の通天閣打法であろう。
 彼にはほかに通天閣投法、通天閣捕球なるものがあるらしいのだが、まったく記憶にない。
 逆に言えば、それだけ通天閣打法のインパクトが強かったのである。

 通天閣打法とは!!
 小さな巨人里中君が投げる渾身の球を、高々と内野に打ち上げる打法だ。
 なんだ、内野フライか……とガッカリするのは早い。
 なんとその打球は聳え立つ通天閣のように高々と舞い上がり、甲子園に吹く浜風が上空で白球にいたずらをする。

 誰もがただのファーストフライだと思った打球は、落下とともに浜風に乗った。
 そして、万全の捕球体勢だったはずの一塁手土井垣のミットをスルリとすり抜け、打球はグランドに落下。その頃にはすでに打者走者の坂田三吉は、サードベースを大きく駆け抜け、らくらくとホームイン………。

 なんと恐るべき打法!!
 秘打の神様・殿馬も思わず

 「ズラ……」

 と言ったに違いない打法である。
 が。
 あのぉ………そんなに高々と舞い上がるフライを打つパワーと技術があるなら、いっそのことライトスタンドまで打ってしまったほうが早いんじゃ……………

 おいちゃん、それを言っちゃぁおしまいよ。

 そんなすごいヤツ・坂田三吉の通天閣高校は、惜しくも一回戦で明訓高校に敗れた。
 しかし、やっぱり坂田三吉はすごかった。
 翌年の夏の大会で、彼は豪腕ガマ投手(どんな字だったっけ?)を擁する甲府学院との決勝戦を制し、見事優勝したのである。
 え?その年の明訓高校はどうしたのかって??
 なんとなんと明訓高校は、ダークホース中のダークホースでありながら一回戦で土佐丸高校を破った岩手代表弁慶高校に、2回戦で惜敗してしまった。

 たとえ練習試合であろうともけっして負けない常勝明訓と言われ、大沢親分に恋焦がれつつも、負ければ監督を辞めて日本ハムに入団するという約束で監督をしていた土井垣が、それによってついに日本ハムに入団するのであった…………。

 ……って、マンガの話をまるで実話のように書いていると非難されそうだけれど、明訓高校が敗れたというのは当時いかにビッグニュースだったかということは、当時のスポーツ新聞の1面を

 明訓敗れる!!

 という記事が踊ったということからもお分かりいただけよう。

 あれ、何の話だっけ??
 あ、そうそう、通天閣ね。
 あの坂田三吉(ピッチャーのほう)の地元こそがこの新世界周辺の西成かそこらなわけで、たしか坂田三吉のばあちゃんだったか母ちゃんは、あの当時でもなお「犬は赤犬が美味いんや」とか言っていたっけなぁ…………。
 通天閣高校が出てくるのはたしかドカベンの13巻か14巻あたりで、僕が小学3、4年の頃だった。あの頃はまだこの界隈では犬を食べていたのだろうか???

 そうか……僕はその時分から通天閣を知っていたのだ。
 その通天閣に………僕たちはついに登る!!