パリとニューヨークを足して2で割った街を!という意気込みで作られた新世界は、当初はそれこそ本当に「新世界」、ニューワールドだった。
今や大阪観光に欠かせないUSJと同じく、戦前は誰もが一度は行ってみたいと願う大阪の新名所だったのである。
が。
戦火によって新世界は灰燼に帰した。
大阪は、有名な1945年3月13日の大阪大空襲をはじめとする33回の空襲を受け、焼け野原になってしまった。
新世界が無事でいられるはずはなかった。
大阪が繰り返し米軍のB−29による無差別空襲の被害を受け続けていたのは1945年のことである。
当時5歳だった父の手を引きつつ空襲から逃げ惑っていた祖母は、ある防空壕に逃げ込もうとしたところ、すでに扉は堅く閉ざされ、入ることができなかった。
やむをえず、焼夷弾が降り注ぐ中をさらに逃げ、なんとか虎口を逃れることができたそうなのだが、B−29の編隊が去り、空襲が終わって廃墟と化した街に戻ると……
最初に逃げ込もうとした防空壕が吹っ飛んでいたという。
運命とは不思議なものだ。
そのとき祖母が支障なくその防空壕に入っていたら、この旅行記は……というか、僕自体がこの世に存在していなかったのだから。
そんな焼け野原だった新世界も、戦後になって通天閣が再建されるなどし、元のにぎわいを取り戻すかに見えた………
……のだが。
日本が戦後奇跡の復興を遂げ、高度経済成長とともに飛躍的に発展していく一方で、交通事情の変遷等で街の中心部ではなくなってしまった新世界界隈は、発展から大きく取り残された。
新世界はどんどん「旧世界」になっていったのである。
古くさくなってしまったのだ。
人出も激減し、もともとドヤ街に集まる労働者たちも気安く楽しめる場所だったこの界隈は、いつしか労働者だけの娯楽空間になっていった。
しかしここからがまた面白い。
「古くさい」ものをそのままにしておくと、さらに時間がたてばいい具合に発酵して、「レトロ」という、ある意味モダンな感覚に変身するのである。
鉄輪旅行記の際にも触れたけれど、どんな真新しい建物を建造するよりも、どんなテーマパークを誘致するよりも、最も安上がりでありながら最も効果的な地域振興の方法がここにある。
最近のこの新世界の語られようが、僕が昔から抱いていたイメージと随分変わってきたのは、ひとえにそのレトロ化によるようだ。
近年、NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」の舞台になったこともあって、その「レトロ」感がさらに人気を呼び、いつしか大阪観光のデートスポットならぬディープスポットとして、全国に知れ渡る大阪の一大大衆文化街になってきたのである。
その新世界の中心地といってもいいのが、ジャンジャン横丁だ。
なんでも、その昔は三味線をジャンジャン鳴らして客を呼び込んでいたからこの名があるのだとか。
なんで三味線を鳴らすの??
その疑問に、島の郵便おじいナカダさんが答えてくれた。
「昔はあのあたりには演芸場がたくさんあって、その呼び込みをしていたからよぉ」
あ、なるほど!
あれ?でもなんで齢80過ぎのウチナンチュのおじいであるナカダさんがそんなこと知ってるの??
「わし、若い頃はずっとあのへんにいた」
え??
なんとナカダさんは、戦前戦後の新世界を縄張りにしていたという!!
しかも戦後の一時は、あの界隈でタクシーの運ちゃんをしていたらしい。
その後はトラック運転手をしたりして、ときには日雇い労働者をあの界隈で探して助手席に乗せ、山崎方面まで荷物を運んでいた時期もあるそうだ。
なんとまぁ……。
「戦前はたしか………すうどん(東京で言うかけうどんのこと)が8銭だったかなぁ。きつねうどんが15銭くらいだったはずよ」
そのほか、戦前戦後の物価の話をいろいろ教えてもらった。
戦前からいたってことは、昔の初代通天閣も見たことあるんですか??
「そりゃ、しょっちゅう見てたさぁ」
うーわ!!
横浜の鶴見区などと同様、大阪の大正区には昔から多くの沖縄県民が生活していることは知っていたけれど、まさか、僕たちの身近にこんなに当時の新世界のことを詳しく知っている人がいたなんて!!
それを!!
それを知ったのは………
大阪から戻ってきた帰りの連絡船の中なのだった。
ああ、もっと早く知っていれば!!
通天閣を降り、いよいよ新世界界隈に繰り出した頃には、まさか郵便おじいナカダさんが新世界ツウだったとは知る由もない我々であった。
目指すはジャンジャン横丁。
しかし、新世界といったらまずこの風景でしょう!!
おお、ホルモン!!
じゃりん子チエの世界ではないか!!
テツやカルメラ兄弟やお好み焼き屋の親父のような人がきっといるに違いない。裏にまわったら小鉄が昼寝しているかもしれない!!
しかしここで注目してもらいたいのはホルモンではなく、テントに書かれた「泡盛」である。
これ、テントの古び方でもわかるとおり、今の沖縄ブームにあやかってとってつけたように書かれてあるんじゃないですぜ。
もちろん県出身者が多く生活しているということもあったろうけれど、大阪の大衆繁華街ではホルモンが安い食べ物の代表であったのと同様、泡盛っていうお酒は、その昔は安酒の代表選手だったのだ。
その証拠に、「じゃりん子チエ」をもう一度よく見直してみるとよい。
チエちゃんのお店には、同じく安酒の代表「ばくだん」と並んで「あわもり」という貼紙も貼ってある。
(アニメだったかマンガのほうだったか忘れた……)
今のように泡盛が全国的にもてはやされるようになった様子を見たら、当時の泡盛愛好家はひっくり返るだろうなぁ……。
このお店のすぐ先が……