みちのく二人旅

達谷窟毘沙門堂

 平泉の風韻を味わう、という今回の旅行の趣旨からすればあんまり関係ないのだが、平泉の中心からちょっと行ったところに達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂というところがある。
 なんでも、坂上田村麻呂の時代、この地で悪の限りを尽くしていた悪路王という首領がここの洞窟に潜んでいて、それを討った田村麻呂が窟に毘沙門堂を建立したのだという。
 中央から見た言い伝えなので、きっと悪路王は言われているほど極悪非道の首領ではなかったと思う。それはともかく、洞窟を隠れ家にするなんて、なんかオサマ・ビンラディンみたいなヤツである。
 堂自体は昭和になって再建されたものだし、悪路王について何を知っているわけでもない。ただなんとなく岩窟を利用したお堂の写真がカッコ良かったので、せっかくだからついでに見ておこう、ということになった。

 ただ問題が一つ。
 道筋は、毛越寺から一関へと続く幹線道路1本とわかり安いものの、駅からおよそ7キロくらいあるのだ。往復14キロを歩くパワーも時間もさすがにない。
 泉そばの余韻が強烈過ぎて時間を忘れていたが、すでに昼過ぎなのである。
 平泉の観光案内によると、平泉レンタカーなら3時間30キロまでなら1500円で借りられるという。
 こりゃ便利だわい、と、早速電話してみた。
 考えが甘かった。
 当日、しかも昼過ぎに電話して車が残っているはずがない。きっと、合計2台くらいしか車を保有していないのだから。
 さあて、困った。バスで行くには一度一関まで出ないと路線がないようだし、どのみち何本も走っていないだろう。さあて、どうするか………。
 結局、駅前からタクシーに乗って行くことにした。
 タクシーで行ったはいいけれど、帰りに拾うことが出きるのだろうか。
 運ちゃんに聞いてみると、
 「無理でしょう」
 とのこと。
 しょうがないので、タクシーには待っていてもらう作戦にした。往復と20分ほどの待ち時間で4000円くらいというから、まぁいいだろう。
 実は、屋根の飾り様の突起が判明したのはこの運ちゃんのおかげである。
 質問すると、
 「お客さんどちらから?」
 と聞かれた。
 「はぁ、雪がまったく降らないところです」
 「やっぱり。高知あたり?」
 「あ、沖縄です」
 「沖縄?そりゃ雪降らないだろうねぇ」
 という会話をかわきりに、屋根の秘密以外にもいろいろと教えてもらうことができたのだ。
 毛越寺の参道がいやに和風で統一されている理由や、達谷の毘沙門堂の住職は達谷さんというお名前であることなど、話の接ぎ穂を探す必要はいっさいなく、次から次にいろいろ教えていただいたのであった。
 1500円のレンタカーよりは遥かに高いけれど、情報料にしたら安いものだ。Q2ダイヤルの比ではない。

 この達谷窟毘沙門堂は、前述のとおり、坂上田村麻呂が悪路王を討ち、毘沙門天の加護のおかげである、ということで、京の鞍馬寺から毘沙門天を勧請し、お堂は清水寺を模して作った、と伝えられている。
 また、すぐ隣りには磨崖仏がある。八幡太郎義家が前9年、後3年の役の戦没者を弔うために彫りつけたもの、と伝えられている。
 これらが、観光ガイドブックやちょっとした解説になると、まるで伝言ゲームのようにごちゃごちゃになっているから面白い。
 ここを根城にしていたのが蝦夷の首領アテルイとなっていたり、鞍馬寺を模して作った、となっていたり、磨崖仏を彫ったのは坂上田村麻呂である、と書かれていたりするのである。
 いかにガイドブックがいいかげんかということがよくわかる。
 水納島へは那覇港から、なんて書いてある本もあるくらいだもの。

 清水寺を模して作った、と書いてあったから、それなりに大きいのかと思っていたら、思っていたほど大きくはないお堂だった。とはいえ岩窟を利用した作りは、お堂の内側に岩肌が露出しているという不思議的なもので、ここに往時は108体もの毘沙門天がいたという。

 隣りにある磨崖仏は、説明によると磨崖仏の北限なのだそうだ。
 タイマイの産卵地の北限とか、トカゲハゼの生息地の北限、というのは聞いたことがあるけれど、仏様にも北限があるとは知らなかった。世界中で、これより北には岩肌に彫られた仏様は存在しないというのである。ふむふむ。
 本来は全身像だったらしいが、残念ながら胸から下は地震その他の天災で崩れ落ち、今ではお顔しか残っていない。いかに大日如来とはいえ、遠く離れた岩に顔だけポツンとある様は、なりがでかいだけに間抜けである。「北限」とか、「源義家」とか箔をつけなければならない気持ちもわかる気がした。
 ま、一人300円の拝観料だからこんなものだろう。

 再び駅前まで帰ってきた。
 平泉での滞在は正味丸1日でしかないけれど、右も左も随分わかるようになってきた。
 小さな町はこれだから楽しい。

 秀衡塗りのお店で箸を買うついでに、このちいさな町をあらためてプラプラと散策することにした。

 家々の庭には、大きな黄色い実がなっている木がよく植えられている。
 こんな北の地には意外なほどの南洋系っぽい形の実である。
 初日に目にして以来、いったいなんだろう、とずっと二人で話していたところ、とあるスーパーを覗いたら正体が判明した。
 カリンだった。
 あまり馴染みのない植物かもしれない。けれど、のど飴の袋をよく見ると
 「カリンエキス配合」
 と書いてある。かなりの人が、知らず知らずのうちにけっこう世話になっている植物なのだ。
 果実はどんな味なんだろう。食ってみたかった、というのが、今回の平泉での、数少ない心残りの一つである(食えるのかどうかは知らないけど)。

 町を歩いてビックリしたことがある。
 老若男女、誰も彼もがみな挨拶してくれることである。
 子供たちなど、すれ違いざまに
 「こんにちは〜」
 と、実にさりげなく、普通に会話するように声をかけてくれるのだ。
 夕方、女子中学生たち数人がすれ違いざま、大きな声で
 「さようなら〜」
 というのである。まさか我々に言っているのではあるまい、と思ったから小声でしか返事をしなかったのだけれど、どうみても相手は我々しかいない。
 標語などで挨拶を奨励する看板は日本各地にあるが、実践しているのを目の当たりにしたのは初めてである。これは誰かが奨励しているから町全体がそうなっているのか、もともとこの地方の人々はそういう習慣だからなのか、どっちなのだろう。
 いずれにしても、旅行者としては、歩いていて実に気分がいい町だ。
 気分がいいといえば、老いも若きも女性がみな美しいというのもまた不思議的真実である。
 パッチリお目目の二重まぶた、という方がまた実に多い。
 全国二重まぶたの人口比選手権があれば、東北は上位独占ではなかろうか。
 上代、都の貴族の美意識では、おそらくこのパッチリお目目、二重まぶた、というのはまったく評価されなかったに違いない。往時の平安京に浜崎あゆみが歩いていたら、きっと妖怪と思われたことだろう。ともすれば陸奥の人々は自らの形質を呪ったこともあるかもしれない。
 けれど今やすっかり評価は逆転してしまった。
 藤原氏も黄金文化も滅んだけれど、見えないところで勝ち取ったものもあったようだ。

 この日もう一泊し、翌朝平泉を後にした。
 桜の季節、あやめの季節、萩の季節、雪の季節………。今回紅葉を堪能したから、是非季節を変えて、もう一度訪れてみたい。