とにもかくにも腹ごしらえを終えると、幾分晴れやかな心持になった。人間にとって、寒い・眠い・ひもじいという究極の三重苦は、どんどん後ろ向きの思考になってしまうから、素早く解決したほうがいい。
気分は晴れやかになったのだが、空はどんよりとしていた。すでに時間も時間だけに、曇ると月見坂などは相当暗い。沖縄に比べると遥か東にいるわけだから、同じ時刻でも日はかなり傾いている。
駅からここまで、観光客らしき人影はまったく見なかったのだが、さすが中尊寺、団体客を乗せたバスがひっきりなしに行き交い、参道を上り下りする人が絶えない。いるところにはいるのである。ただし通常の観光コースだとそろそろ帰る時間帯なのか、バスを見てひるんだほどには人の姿はなかった。
この月見坂、中尊寺といえば必ず紹介される坂道である。杉木立が鬱蒼としていて、異空間へと続くかのような参道だ。まるで往時に直通しているタイムトンネルのようである。ワラワラと歩いている団体客がいなければ、もっと雰囲気が出たかもしれない。
ただし、この杉木立が奥州藤原氏当時を偲ばせるのかというとそうでもないらしい。遥かに下って江戸時代、仙台伊達藩が中尊寺保存事業の一環として植樹したものなのだそうだ。木立が邪魔して月など見えないだろうに変な名前、と思っていたが、往時は月を近くに感じるほどに眺めることができたのだろう。
そもそも、この月見坂に限らず、中尊寺にしろ平泉全体にしろ、この地に来たからといって藤原三代の栄華を直接見ることができるわけではない。このあたりがまことに難しいところではなかろうか。正しくは、三代の栄華の「跡」を「感じる」場所なのである。
きれいな絵を見て美しいと思うことは誰にでもできる。
素晴らしい景色を前にすれば誰だって感動する。
けれど、目の前の朽ちた堂、単なる草花、一面の田を見て、時空を超えた風韻を味わうことができる人はそうそういるものではない。
中尊寺は、天台宗東北大本山関山中尊寺として9世紀に開かれていたものの、そこに初代清衡が、数々の戦乱で命を落としたあらゆる生命を浄土に導くために、数々の堂塔伽藍を整えたものである。ところが藤原氏滅亡以降、火災でほとんどの堂塔が消失したため、今現在の姿は、たとえ再建されているものもあるとはいえ当時とはまったく別ものと考えても間違いではない。往時は今とは比べ物にならないくらいに荘厳な空間だったのである。
だから、たとえ金色堂はそのまま残っていようと、実際に目で見えるもの以外のところで、そこに存在する霊的な空間の震えのようなものを感じなければ、奥州藤原氏全盛時の平泉の息吹を感じることはできないのである。
が。
そんなこと、もちろん我々のような凡人にできるわけがない。多少の歴史を知ったからといって、そんな感じ方が誰でも彼でもできるくらいなら、そこらじゅう詩人だらけである。
詩的に捉えることができるのは、やはりそういった才能の持ち主であろう。
ただ、我々凡百の庶民は彼らの才能を拝借してくることはできる。幸い、この地を訪れた詩人は数多く、しかも代表選手ともいうべき名作があるではないか。
三代の栄耀一睡の中にして、
大門の跡は一里こなたに有。
から始まるおくのほそ道・平泉編、その後段は中尊寺に触れている(火災を免れ往時のままなのは金色堂と経堂だけらしい)。
兼て耳驚したる二堂開帳す。
経堂は三将の像をのこし、
光堂は三代の棺を納め、
三尊の仏を安置す。
七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、
金の柱霜雪に朽て、
既頽廃空虚の叢と成べきを、
四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌。
暫時千歳の記念とはなれり。
五月雨の降のこしてや光堂
意味なんてわかんなくていいのである。この人が抱いた感慨の端くれでも味わうことができれば、同じ地に立って千分の一くらいの感動を味わうことができるかもしれないのだ。
という、ブンガクテキ感動を無理やり味わおうとしているときに、これはないだろう、というのがこの義経と静御前(?)の顔はめ記念写真セットである。