高館の夕景
来た道をそのまま戻ると、途中に高館がある。北上川と真っ向勝負しているかのような場所にある小高い丘だ。
往時の北上川の流れはもう少し東側にあったらしいとはいえ、船の行き来を管理するには便利な丘だったことだろう。
でもこの丘が有名なのは、なんといっても義経が居住していた館があったからである。そのためこの場所を判官館ともいう。
平泉町にとっての義経は、奥州藤原氏とともに欠くことのできない歴史上の人物である。町の様子を見る限り、本家藤原氏よりも義経のほうがヒーローであるようだ。
かの九郎判官が活躍したのは一の谷以降ずっと西国なのだが、平泉はもとより東北の人々の義経への思いは西国の人々よりもはるかに大きいのではなかろうか。
冷静に考えるなら、東北での義経なんて、若いころも落ちぶれて以後も居場所がなくてしょうがなくやってきただけの存在である。奥州十万騎を駆使して鎌倉勢と一戦交えたのならともかく、ただ単に捨てられたも同然に命を落としただけだ。
なぜそれがここまでヒーローとして君臨しつづけるのか。
「義経記」をはじめとする数々の物語のせいである。
義経主従の涙涙の物語は人々の心をとらえて離さない。西国での活躍よりも、本来不明であるはずの逃避行がドラマの核心部分だから、いやがうえにも同情が集まり、悲劇のヒーローということになる。
その物語からすれば、兄頼朝は圧倒的に人非人、それでも人の心があるのか、というくらいの悪役である。僕も子供のころはずっとそう思っていた。
しかし、頼朝の功績を評価する話を知れば知るほど、どう考えても義経がバカだったからだ、としか思えない。
義経を主役とする物語では、頼朝がいかに革命的な大変革をおこなったかということはあまり語られない。何世紀にも渡って続いていた律令制をガラリと覆し、新興勢力である武士の権益を約束した武家の時代へと変えたこの功績をキチンと把握しないと、頼朝を単なる悪者としか認識できない。
その革命家頼朝の苦労を、はたして義経はどこまで理解できていたのだろうか。
それでもやはり、義経はヒーローだった。無邪気なまでに無知だったからこそ愛されるのだろう。
つかの間の栄華、栄光、そして落剥の人生。若くして世を去ったのも手伝って、人々の記憶に濃厚に存在感を示しつづけるのである。
もう夕方といっていい時間だった。
高館での景色を眺めるには、階段を少々上らなければならない。その上り口に拝観料の受付場所があった。
義経堂と呼ばれるお堂があって、この場所自体が毛越寺の別院である関係で、丘の上に行くには拝観料が要るのだ。一人 200円。
が、その受付に人が見当たらなかったので、仕方なくそのまま階段を上がった。
上がりきると、眼下に大河があった。遥かな古代、日高見の国を潤していたであろう北上川の流れである。
遥か南部の地から流れ降りてくる北上川は、その周囲で起こった様々なドラマなどまったく関係がないとでもいわんばかりに、まるで時の流れのごとく悠々と南へと下っていく。
その向こうにそびえるのは、吉野のほかに かかるべしとは、と西行がびっくらこいた桜の名所束稲山。そしてかの芭蕉も、この地でその詩人の血を震わした。
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。
秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。
先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。
衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。
泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。
偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、
笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
空はどんよりと雲ってはいたが、ここから眺めるこの景色こそ僕の平泉での最大のテーマだったのである。
さすがに僕らは時のうつるまで涙を落としたりはしなかったし、そもそも夏草などかけらもない晩秋である。けれど、この詩人のおかげで、単なる刈取り跡の田んぼまでが何かを語りかけてくるような気になった。
ちなみに、芭蕉も随行の曾良も、当時すでに40を過ぎたオッサンである。そんなオッサン二人が、さして何にもないこんなところでやおら時の移るまで涙を落としまくっている……。通りかかった百姓のおじいがいたら、気味悪がったことだろう。
旅行前に、この高館の下にバイパスを通す工事が進行中であるということを知り、蕎麦の売り切れを告げられた時以上の衝撃を受けた。来るのをやめようかと思ったほどである。
幸いなことに、工事中断後しばらく経っているのか、写真で見た赤土剥き出しの工事中の場所は、草草に覆われたせいで痛々しい姿には見えない。すでに道路の形に整えられているとはいえ、恐れて、そして覚悟していたほどの無残な姿ではなかった。
しばらく眺めを堪能していると、受付の係らしい男性が、もう一段上にある義経堂のほうから降りてきた。いらっしゃらなかったので上がってきました、ここで払います、というと、
「ああ、一人分でいいです」
なんていい人だ。
と思ったが、実はこの先の義経堂は午後4時30分までで、その男性は義経堂のトビラを閉めに行っていたのだ。ようするにお堂の中も宝物殿もすでに見ることができないので、一人分サービスしてあげる、という事だったのである。
もっとも、僕にとってはお堂が開いていようがいまいが関係ない。
この悠久の眺めさえあればいい。
その時、左手にあたる衣川のあたりが、突然オレンジ色に輝き出した。
夕陽である。
先ほどまで氷雨にポツポツと降られながら歩いていたのに、いつの間にか雨はやみ、そのうえ雲間から夕陽が顔を出していたのだ。
残念ながら夕陽が沈む位置はここからの眺めとはまったく逆である。束稲山に沈むわけではない。
とあきらめていたら、衣川付近を照らしていた日の光りがだんだん束稲山に向かって延びていくではないか。
そして数分経つと、北上川から向こう、束稲山のふもとに広がる田園から山頂まで、一面朱に輝く夕景となっていた。山頂付近の大文字が一瞬輝いた。山のふもとの所々でワラを焼く煙がたなびく。東に目を転ずれば、虹がわずかにかかっている。
国破れ、山河だけが残り、往時をしのぶ何ものも残っていないかもしれないこの土地ながら、この束稲山を輝かす残照だけは、当時も今も変わらないに違いない。この夕景を、遥か昔からこの地で何人の人が見てきたことだろう。
輝く束稲山は、ほんのつかの間だった。一瞬の輝き。まるで奥州藤原氏百年の栄華のようなはかなさであった。 |