全長 2cm
サンゴの枝間で暮らすダルマハゼの仲間は、種類によってお気に入りのサンゴがほぼほぼ決まっている。
トゲサンゴをこよなく愛しているアカネダルマハゼは、他のサンゴに住んでいるものを目にしたことがない。
ちなみにトゲサンゴってのはこういうサンゴ。
枝の先っちょがとんがってトゲトゲしているので「トゲサンゴ」。
ただしこのようなほのかなピンク色のトゲサンゴは割合的にはレアで、よく見かけるノーマルカラーはこんな感じ。
黄色味が強い。
どちらのバージョンもハードコーラルの中では群を抜いてストレスに弱く、特に高水温に晒される日が続きすぎると、たちまち白化してしまう。
夏場であれば少なからず海水温は高くなってしまうものとはいえ、その度合いが世界レベルでひどかった98年の夏には、このトゲサンゴが真っ先に白化し、他のサンゴたちに先駆けて、あっという間に死んでいった。
トゲサンゴには魚に限らずエビやカニなども枝間に潜んでいるから格好のウォッチングゾーンだというのに、98年の白化で水納島のトゲサンゴは壊滅してしまった。
そのためアカネダルマハゼは、以後水納島では超希少種になった。
アカネダルマハゼと出会うためには、なにをさておいてもトゲサンゴに復活してもらわなければならない。
水納島周辺だけじゃなく、広域で壊滅してしまっていたために、トゲサンゴに限らずサンゴの回復はその後相当な年月を要したのだけれど、まったくノーマークだった場所にトゲサンゴのピンクバージョンが育っていることに気がついたのは、2007年のことだった。
握り拳よりも少し大きいくらいの小ぶりな群体。
それがたった4年で……
ここまで育った。
そしてその枝間には……
13年ぶりにアカネダルマハゼの姿が!
いやあ、感動したなぁ…。
このピンクのトゲサンゴは、最終的には人間山脈ことアンドレ・ザ・ジャイアントのアフロヘアーなみの大きさにまで育った。
アンドレアフロトゲサンゴは、心無い業者のアンカーで中央部が物理的に粉砕されたり、プチ白化で一部が白くなっては復活したりしつつも頑張って、そこでアカネダルマハゼはおそらく世代交代をしつつ、大きく育った子も観ることができるようになった。
ちなみに。
小さい頃はそれほど目立たないのだけれど、アカネダルマハゼは2cmくらいになると、その顔の周りは……
けっこうヒゲモジャになる。
これくらいの小さな写真だとさほど気にならない程度ながら、パソコンモニターくらいのサイズで眺めると、その剛毛具合いにやや圧倒されるかも。
このようなオトナサイズから米粒大のチビターレまで、いろいろなアカネちんに出会うことができたアンドレアフロトゲサンゴだったのだけど。
2016年に再び規模の大きな白化が起こり、アンドレアフロトゲサンゴはついに還らぬヒトになってしまった。
それまでの5年間、アカネダルマハゼウォッチングゾーンとして重宝していただけに、我々は悲嘆に暮れた。
その2016年の白化では他の多くのトゲサンゴが同じように昇天してしまったから、再びアカネダルマハゼは稀少な魚に逆戻りしてしまった。
もっとも、2016年の白化自体は局地的被害で済んでいたおかげで、水納島でのトゲサンゴの復活も早かった。
2018年になると握り拳大の群体がちょくちょく観られるようになってきて、そこに……
アカネダルマハゼリターンズ、アゲイン。
同じサンゴに住むクロダルマハゼに行動範囲を制限されつつも、たった1匹で健気に暮らす、小さな小さなアカネダルマハゼ・チビターレ。
あいにくピンクのトゲサンゴに比べると黄色いトゲサンゴでは写真映えはしないけれど、2年ぶりの再会は、なんだかしみじみうれしくなる遠方からの便りのようだった。
その後現在(2020年10月)に至るまで、トゲサンゴは物理的被害を多少受けつつも、アカネダルマハゼともども健在だ。
ただしアカネダルマハゼはトゲサンゴの枝の上で、「撮ってください」「観てください」と言わんばかりの場所にいてくれるわけではない。
危険を感じていなければ枝の先っちょで姿をさらしてくれるけれど、ダイバーが近寄って大きなカメラを無遠慮に近づけたりしたら、まず枝間の奥に隠れてしまう。
そこでジッと我慢して待ち続けていれば、やがて枝間の奥からヒョコヒョコ…と顔を出してくれる。
もっとも、アカネダルマハゼは姿を現してくれたからといって、アクビをしたりエサを食べたりといった普段の姿=何かしらのアクションをそうそう見せてはくれない。
でもたまに…
ウンチはする。
見せてくれるアクションといえばせいぜいそれくらいだろうか。
でも奇跡的に……
ツーショットを撮らせてくれることはある。
もっと頑張れば、アクビも見せてくれるだろうか?
そのためには、この先もずっとトゲサンゴには元気で居続けてもらわなければ。
トゲサンゴが元気でいてくれるかぎり、ヒゲモジャオトナからチビチビチビターレまで、またいつでも会える魚で居続けてくれることだろう。