全長 40cm
進化の過程で身の周りに外敵がいない状況が長く続くと、その動物は本来持っていた能力を捨てることがある。
沖縄本島北部の山原にいるヤンバルクイナも、ニュージーランドのキウイも、島の成り立ちの過程で彼らを捕食する動物がいなくなったからこそ、地に生きることにして飛ぶことをやめた。
フグたちもしかり。
テトロドトキシンという強力な毒を内蔵する術を得てからは、彼らを食べようとする捕食者は絶無となった。
となれば。
わざわざ泳がなくてもいいんじゃね?
サザナミフグは、ある日ふとそう気づいてしまったらしい。
岩場のポイントやリーフ上にいるときには、プカプカ浮いていることが多いサザナミフグ。
けれど砂地のポイントでは、いつも砂底にドテッと休憩している。
近寄ると彼は一応その場から逃げようとはするものの、その場から5mも泳げばいいほうで、たいていの場合、ちょっと動いたかと思ったら数m先で再びドテッと着地してしまう。
あまりの体の重さに、もはや泳ぐ気力も失せてしまっているらしい。
ま、フグ毒のおかげで誰に襲われるわけじゃなし、身に迫る危険皆無という状況がなせることなのだろう。
ただし、時には誰にも邪魔されたくないのか、冒頭の写真のようにサンゴの木陰で休んでいることもある。
そういうときに邪魔をしてしまうと、サザナミフグはあまりいい顔をしない。
また、よほどゴキゲンが悪いのか、
「ワシもう絶対に動かんけんね!」
とばかり、意地でもその場に居続ける態勢になっているものもいる。
咄嗟に逃げ出すことなどまず不可能そうな場所にハマり込んだまま、この時の彼は微動だにしなかった。
このように着底してジッとしているときには体色の濃い部分をまだら状にしているけれど、基本的に体の上半分は水玉模様、下半分は流線模様だ。
ただしその水玉模様は、体のサイズが小さいほど割合が大きくなる。
なかなか出会えない10cmちょいほどの若いサザナミフグで、思わず手に取って膨らませたくなるほどに可愛いサイズだった。
これよりももう少し大きめの若いサザナミフグに出会ったときは、その傍にもう一回りほど大きなサザナミフグと一緒にいた。
サザナミフグが2匹でいるところなんて滅多に観られないから、そっと近づいてみたところ…
ん?
なんだか様子がおかしい。
大きいほうの体色が、なんだかサザナミフグらしくない。
おかしいのは色合いだけではなくて、ノーマルカラーの小柄なサザナミフグに対して、しきりに挑発もしくはアピールする動作を繰り返していた。
多くの魚が盛り上がる季節ではなく、真冬も真冬の年始のことなのだけど、これはいったいなにをしていたんだろう?
というか、このアブノーマルカラーのサザナミフグ、見れば見るほどヘンテコリンカラーだ。
全体的にグレーっぽいし、サザナミフグに特徴的な白い点々は通常はその輪郭のラインが目立つことはないのに、このアブノーマルカラーときたら、白点の輪郭には太い線がかなり目立っている。
サザナミフグの興奮色なんだろうか?
あとにも先にもこのような色味になっているのを見たのはこのときかぎりなので、詳細はまったく不明だ。
ところで、他に何もない砂地の上でドテッとしているサザナミフグがその場を去ったあと、先ほどまで彼が佇んでいた場所を見ると、↓こういうモノが残されていることがあるよくある。
これ、サザナミフグのフン。
ナガウニの棘に、各種貝殻の欠片など、彼らの強靭な歯は、こういうものを軽く噛み砕いてしまうのだ。
噛み砕くのはいいとして、ナガウニの棘なんかを丸ごと飲み込んで、口内から肛門に至るまでのすべての過程はどこも痛くないのだろうか?
ウニを食べつつそれほど動かないとなれば、そりゃデブデブになっていくことだろう……
…と思いきや、時々激ヤセしているサザナミフグに会うこともある。
KFCの入り口にいるカーネル・サンダースが、ミスター・オクレになってしまったかのような激ヤセぶり。
泳げる魚という別キャラを、デ・ニーロアプローチで演じたくなったのかもしれない。
そんなサザナミフグにも、子供の頃がある。
普段のファンダイビングではそうそう会う機会は無いけれど、台風が去った後などに桟橋付け根付近の水が淀んでいるあたりを探ってみると……
黒くて丸いものがチョコンとたたずんでいることがある。
これをよく観ると……
わぉ、サザナミフグのチビターレ!
前から見るとけっこう可愛い顔をしている。
これくらいのサイズだと、体色の濃淡をわりと変化させられるようで、模様がクッキリ出ていたり出ていなかったりする。
でももっと小さな頃は……
ほぼ真っ黒。
これで1cmほどだから、たとえ目の前にいたとしても、クラシカルアイだと何かのタネにしか見えないかも…。
こんなチビターレから40cmほどのオトナになるまで、いったい何年かかるのだろう?
普段砂底にドテッと休憩しているサザナミフグたちは、実は長い長い人生行路の果ての姿なのかもしれない。