●海と島の雑貨屋さん●
写真・文/植田正恵
月刊アクアネット2009年12月号
最近人の目(顔)を見ないで会話をしている人を時々見かける。
初めて会った人を凝視するのはさすがに失礼だろうけれど、まったく目を合わさずに会話するっていうのもなんとも落ち着かないものだ。
そのあたり一般的にはどうなのだろう。私だけがそう感じるだけなのだろうか。
私が水納島に越してきた当初、とにかく行事や飲み会へのお誘いが多かった。
まだ島民が若くて元気だったということも大きな要因ながら、今になって考えてみると、新島民はいったいどんなやつなのだろう、飲みがてら一丁探ってやろう、という好奇心も多分にあったのではと思える。
ま、深い意図はないにせよ、こいつがどんなやつなのか、という探りを入れていたに違いない。
というのも、15年間島民暮らしをしてみると、今度は島民側として、新しく来た先生などを観察している自分に気づくからだ。
その人となりを知るには、やはりその人と話すのが一番である。そういうときに、目を合わさずに話していられるはずがない。
この島に来て「おもしろい」と思ったことのひとつに、電話で事足りることをいちいち各家に行って直接口頭で伝えることが多い、ということがある。
越して来たばかりの頃は、わざわざ足を向けてくれたのだから、ものすごく重要な話なのかと思ってその都度身構えていた。
ところがいついつどこどこで何をやろうと思っている、ということを伝えるだけ、ということがほとんどだったのだ。
当初こそ面食らってしまったけれど、最近は私も、相手が忙しくなさそうで(ということが大体分かるのが水納島)自分に余裕があるときは、電話で済むことをあえて出向いて伝えたりしている。
そのほうがなんとなく相手の反応もよくわかるし、用事以外の会話もできて楽しいからだ。
やっぱりどんなに便利になろうとも、機械を通してしまうと失われてしまうもの、見逃してしまうものがあるのは間違いない。
もちろん遠方だったり、仕事の用事などの場合は、絶対に文明の利器を使ったほうが便利なのは当然だ。それでも大きな商談のときなんかは、やっぱり国を超えてでも直接会いますよね?
水納島は規模が小さいから、各家を回るといってもそんなに時間も労力も必要としない。おかげで今に至るもなお、そのアナログ方法が残っているんだろうと思う。
もっとも、夕方にそんな風に誰かの家に行くと、そのまま飲み会に誘われてしまうことも多々あるのだけれど…。
そんなところに住んでいて、人の目を見ないで会話をするということは絶対にありえない。
目は口ほどにものを言う、という言葉もあるように、相手の反応を知るためには、やはり直接会って目を見ないと分からないと思うのだ。
このあたりはやはり、普段の生活で出会う人間の数の問題なのかもしれない。
なにしろ都会では、目と目があっただけでインネンをつけられる可能性だってあるのだから、目を合わせないというのは、ある意味防衛反応なのだろう。
そういう意味では、マンションの隣人と話したことがないというのが当たり前の世界と、直接会って話すのが当たり前の社会との、処世術の違いということだろうか……。