初めて泊まった西新宿ホテルは、船員会館の広さに比べれば目を疑う部屋のサイズではあるものの、ここは東京、それも新宿。贅沢は言っていられない。
我々はここで4泊するのだ。
都内で4泊!!
東京で4泊もしたら、月にだって行けそうだ。さあて、何をしよう??
都内で勤めている頃ならいくらでも機会があったろうに、ソメイヨシノの花見と同様、まったく興味がなかったのが、テクノポリス東京に今も残る江戸の香り。
原稿の受け取りや取材などなどで、けっこうあちこち電車で都内各所に足を運んでいたというのに、「赤坂見附」とか「桜田門」、「八丁堀」とか「門前仲町」、そして辰巳だ木場だ、日本橋だ四谷だなんだと、今ならやたらと気になる地名を、当時はことごとくスルーしていた。
ところがその後沖縄に引越し、暇に任せて鬼平犯科帳や剣客商売といった、江戸情緒溢れる池波正太郎の時代小説を読む時間もできると……
江戸って面白そう!!
となってしまった。
ないものねだりというのはどんな分野であれ人間の業のようなもの。沖縄に住む僕は今さらながら、江戸情緒を味わってみたくなっていた。
が。
羽田と那覇を、アタッシェケース片手に激しく往復するビジネスマンならいざ知らず、沖縄にいるとそうそう東京を散策する機会はない。どこかに旅行へ行く際も、首都圏にいる限られた時間は「帰省」に費やされる。
なので、羽田空港を利用することはたびたびあっても、近くて遠い大江戸八百八町だった。
ところが!
今回のコテン。のおかげで、大義名分つきで数日都内に滞在できる。夜は飲む予定ばっかりだけど、昼間から飲む誘いをかけてくる人などいるはずはなく、おかげで日中はたっぷり空いている!!
というわけで、せっかくの都内滞在を利用し、セルフはとバスツアーをすることにした。
その最初の目的地が、深川だ。
そりゃなんてったって、池波正太郎の小説を読んでいたら、本所・深川ははずせない。そして深川といえば、あれを食べなきゃ始まらない。
そんなわけで、我々が沖縄に引っ越す前には存在しなかった都営地下鉄大江戸線に乗り門前仲町へ。
さすがに東京もこのあたりまで来ると、パッと見はどこかの郊外都市と変わらない。でも、やたらと目につくのが飲食店。
それも、夜になるとワラワラ増えるネオン系のじゃなく、昼間から営業している系の飲食店のオンパレードだ。
永代通り沿いに行ったほうがわかりやすかったのだけれど、永代通りと併走するスージィグヮーに入ってテクテクゆくと、たどり着くのがここ、
深川不動尊。
江戸めぐりだなんだと言ったところで、関東大震災、米軍の大空襲、そして高度経済成長という段階を経て、江戸の名残りなんて見た目でそれとわかるものなど壊滅的で、日本の多くの史跡と同じく、脳内変換の必要がある。つまり、見た目の景色を、脳の中の知識で色づけるのだ。
が、我々が持っている江戸の知識なんて、それこそ鬼平犯科帳、剣客商売、遠山の金さん、大岡越前、江戸を斬る、etcで見ていた風景でしかない。
その江戸ってつまり…………
……京都じゃんッ!
長谷川平蔵が劇中で江戸市中を歩いていたとしても、それは東映太秦スタジオやその周辺の寺社仏閣であって、ロケ地がこのあたりであるはずはない。
とはいえ、さすがに寺社仏閣ともなれば過ぎし日々の面影を残してくれている………
……かというとそうでもない。
ここ深川不動堂にも、その持てる資材をふんだんに用いた本堂建設計画が具体化していたのだった。
池波正太郎の本によれば、その昔はこのお不動さんの参道には美味い金鍔を食わせる茶店があったそうで、「お不動さまの金鍔」という言葉そのものに風情があるんだけれど…………この本堂じゃなぁ。
ここで、僕はずっと勘違いしていたことに気がついた。門前仲町という地名は、この深川不動堂の門前だからだと思っていたのだ。
この成田山深川不動堂は大昔からあったわけではなく、江戸時代のこのあたりは永代寺というお寺の勢力下だったのである。神仏習合時代のこと、立地を見る限りどうやら富岡八幡宮とセットだったようで、その門前として栄えたのがこのあたりだった。
たしかにこの新本堂のセンス、江戸からあるお寺のものではないものね。
その点、神社はあくまでも神社である。
深川不動堂のすぐそばにある富岡八幡宮。
池波正太郎の時代小説によく出てくるところで、鬼平もちょっとしたついでに立ち寄ったりしている。
神社らしく、境内には巨木が多い。平日の午前中なれば人の数とて多くはなく、春の風が心地いい。
ここでは勧進相撲が盛んに行わていたこともあり、境内には歴代横綱の名が記された碑がある。
お不動さんのほうから来てしまったので、我々は脇から入ってしまったのだが、ここは当然ながら参道が立派だ。この参道を、かつて江戸の昔には、鬼平も歩いたに違いない。
後のビルさえなかったら………
このあと、チョコチョコっとこの界隈を散策しつつ、清澄白河駅方面まで歩いてみることにした。やはりメインストリートだとつまんないので、アヤシゲな横道、横道に入っていくと、いつの間にか向きをまったく間違えていて、大横川を越えてさらに南下してしまっていた。
団地にはさまれた親水公園的水路でしばし休憩がてら地図を見て愕然とする僕。
やむなく、この親水水路をたどって軌道修正することにした。
この水路に………なにかアヤシゲな物体が蠢いていた。
「ゴカイだ!」
水辺と見るやすぐさま物色するオタマサは、すぐさま反応。でもゴカイって海の生き物だよねぇ??
さすが深川。
海など遥か先のようでありつつ、実はもうすぐそこが海なのである。だから、何気ないこういうささやかな水路にも海水が入り込んでいるのだ。
そもそも深川というのはご存知のとおり家康が江戸に入府してのちにたくさんやってきた人たちが作り出した土地で、それ以前は上野の不忍池あたりまで海水が入り込んでいたという。
このあたりは大坂の人、深川八郎右衛門が土木作業の果てに作り出した土地だそうだ。その他、隅田川沿いの江戸の平地のほぼすべては、家康入府後に人々の手によって作られた土地なのだというから、ものすごい土木作業であったに違いない。神田にあった山を削って土砂をもってきたらしい。
大変だったろうけれど、だからこそ当時のこのあたりは縦横に堀を張り巡らせることができたともいえる。その堀文化のまま現在に至っていたら、ベネチアと並び称される水の都になったろうに……。
清澄通りに併走している小道をテクテク北上すると、やたらと寺院ばかりの区域を過ぎて、やがて清澄白河駅付近にたどり着いた。
この付近にも、明治小学校とか深川2中などの学校がある。
この江戸の下町文化に触れながら育つというのも、周りが海の環境や山々に囲まれた世界とは、やはりまた違った精神構造を作り上げるのだろうなぁ。
さて、深川に来た我々の最大の目的が、ここ!!
深川めしを食べたかったのだ。
深川めしというのは、ようするにここいらの漁師さんたちが時間がないときにガッとかき込むアサリの味噌汁ぶっかけどんぶり飯の具を、ちょっと高級に味噌煮込みに仕立て上げたものなんだけど、一方で、もう少し上品に…とアサリをご飯とともに醤油で炊き込んだものもあって、深川丼やら深川めしやらと名前が錯綜している。どう違うのかということについてもっともらしく書いてあるサイトも多いのだが、それぞれで違うことを言っていたりするのでよくわからない。
とにかく、深川めしであれ深川丼であれ、ここらあたりの名物なのである。
その存在を知って以来、チャンスがあればいつか…と思い続けてはや何年、やっとやっとそのチャンスが巡ってきたのだった。
実はこの深川宿というお店は、富岡八幡宮の境内にも店舗を構えている。そこは2号店で、本店はここ清澄白河駅近くのほう。
我々の散歩コース的にはここあたりがちょうどお昼頃になるタイミングだったので、さきほど通過した2号店の前では指をくわえてジッとガマンの子であったのだ。
それがついに目の前に!!
開店間もない時間だったから店内はまだ空いていて、囲炉裏席に座れた。今この時間だからこそお向かいから撮っているけれど、さして広くない店内は、たちまち人で埋まった。
さて、いつものことながら昼間からビールを飲んでいる。
これぞ車を使わない旅の醍醐味♪
でまた、試食にどうぞ、と仲居さんがアサリの佃煮などのセットが入った重箱を持ってきてくれるので、ちょうどいいお通しになる。
そしてお待ちかね!!
これが深川めし。
ああ、しまった、醤油炊き込みのほうのフタを取るのを忘れた!!
ぶっかけ系と炊き込みと、どちらとも選びきれなかった我々は、2人ともどちらも食べられるダブルのセット。
さあ、うれしはずかし人生初深川めしを実食。
う……………………美味いッ!!
なんだこのアサリのプリプリ感は!!
こんなに存在感に満ち、それでいて滋味豊富でなおかつ食感が素晴らしいアサリなんて、そうそう食べられるものではない。
それもそのはず、ここ深川宿のアサリは、江戸前や、伊勢湾の大淀産等、厳選された国産のアサリのみ使用。冷凍物は一切使わず、採れたてのものを直送で仕入れているという。
そして、セットのお盆には最初から胡麻餡つき白玉がついていたにもかかわらず、ダメ押しのようにデザートまで出てきた。
くずきり。
至れり尽くせりとはこのことだ。
アサリといいセット内容といい、昼飯にするにはいささか高価なお値段も当然だったのである。
そして、後日浅草駅で購入した深川めしという駅弁が、弁当であるということを差し引いても品下がったように思えたのも当然だったのだ。
店内には、奥に辰巳芸者でもいるのかなという感じで、チントンテンと三味線が流れていた。つまりこれって、沖縄そば屋で沖縄民謡が流れているような、いわば超ベタな演出なのだけれど、我々観光客はやっぱり
うーん、深川。
となるのだった。
オタマサもご満悦である。
大将はこの道何十年という感じで、いかにもこのあたりの生まれらしく、チャキチャキの江戸っ子という言葉がピッタリの方だった。
混んできた客のいろいろな注文をサササとこなしていくワザが見事だ。
帰り際、どこから来たの?と問われたので正直に答えると、予想外の遠方に驚いてくれたほか、この近所にも比嘉さんとか金城さんがいるよ!と教えてくれた。
江戸の下町にも琉僑社会が頑張っているらしい。
今もこういった「江戸っ子」が町のあちこちにいらっしゃるのだろうけれど、その様子を旅人が短い時間に味わえる、というものではない。街の景観も、清澄白河あたりは随分昔の雰囲気があるそうなのだが、それでも「江戸」の昔とは程遠い。
頭の中でなかなか往時のイメージを結像できない我々のような人には、うってつけの場所がある。
深川江戸資料館だ。
この深川宿のすぐ向かいにある。
深川宿も深川江戸資料館も、どちらも今日の目的地だったのだが、まさか両者がこれほどまでに近かったとは……。
まるで計ったかのように見事だ。
さて、その深川江戸資料館、下町の長屋を実物大で再現しているのだけれど、これがかなりリアルなのである。
二十数分サイクルで1日を表すよう照明が変わるこの長屋スペースには、八百屋や船宿といったおなじみのお店を始め、そこに住まう人ごとに変わる長屋の部屋の中なども大変凝っていた。
船宿の向かいの堀もまた凝っていて、
貝殻が散らばっているのはもちろんのこと、
なんとフジツボまで再現されていた……。
おそらくボランティアなのだろう、この場で客にいろいろ丁寧に説明してくれる人がいて、その方が言うには、
「貧乏長屋はどうも……って感じだけど、三味線のお師匠さんのおうちなら住めそうだわ…」
と外人観光客が言っていたらしい。
となると、仮にこの下町を本当に地上に再現したとしても、きっとグリーンミシュランには載るまい……。
ところで、そういったいろいろな稼業のなかで、特にうちの奥さんが感じ入ったのがこれ。
各家の中にも入れる。
むきみ屋さん。
剥き身屋さんである。何を剥くのかというと、ズバリ、江戸前の貝。フォレスト・ガンプ的うちの奥さんにやらせれば、たちまち江戸前中の貝が剥かれてしまったことだろう。
このむきみ屋稼業は、その昔江戸の頃のこのあたりにおける、もっとも手っ取り早い職業だったのだそうだ。
たしかに、早朝に海で貝を採ってきて殻を剥き、天秤棒を担いでそれを売るだけで日々の暮らしにはとりあえず事欠かないのだから、手っ取り早いといえばこれほど手っ取り早いものはない。
とにかくアテもツテもなく江戸に出てきた人や、裸一貫でやり直さなければならなくなった人にとって、こういった仕事が存在していたというのはとても便利だったろう。もちろん、それらを買い求める人にとっても。
現代日本は他人に「雇われる」ということを前提にした社会のあり方に変わってしまっているため、このむきみ屋さんのようなバイタリティのある人が極めて少なくなっているのではなかろうか。
雇用がない、雇用がないと嘆いているヒマがあったら、何か自分でやればいいじゃないか。
きっと江戸の下町の人たちはそう言うだろう。
いやあ、すごいぞ深川江戸資料館。
規模こそ違えど、その一つ一つのクオリティは、優に東映太秦映画村を凌いでいた。
このあと、すぐ近くの清澄白河駅で再び地下鉄に乗り、今度は両国へ。
東京江戸博物館に。
似たようなものながら、東京都がやっているだけに規模が違う。計画段階での責任者は、鈴木都知事(当時)。さすが巨大都庁を建てた人だけあって、この博物館も異常にでかい。国技館のそばにこんなでかいものを建てる神経がわからん……。
向こうが両国国技館。
この無意味に広いフロアの上に、巨大な建物が。
…と文句を言いつつもやってきたのは、この中で展示されているあるものを見たかったからだ。
そのあるものとは……これ!
両国橋あたりを再現した模型である。
ものすごくディティールに凝った作りの大きな模型で、一人ひとりの人物は田宮模型の35分の1ドイツ軍突撃小隊セット程度のサイズながら、往来する人々の動作どころか表情まで、クローズアップに耐える作りになっているのである。
ディティールはそれらの人物が手にしている小物にまで至っており、そばのスクリーンで流れていている各所各所をクローズアップで捉えた映像がものすごく見事だった。
で、この模型は、何を隠そう渡辺謙主演の時代劇「御家人斬九郎」のエンディングでずっと背景に流れていた映像そのものなのである。
僕はただただ、それを観たかったのだった。
だから何?って言われればそれまでなんだけど……。
このほか両国には、すぐ隣の国技館や回向院など他にも名所があるものの、とある事情で先を急がなければならなかった我々は、ひとまずこの地を後にした。
さて、次の目的地は……
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