D雨の浅草(3月6日)
すでに上京してから1週間となるこの日、一度埼玉の実家でクリアしたとはいえ、その後また溜まりに溜まっているものがあった。 洗濯物だ。 洗濯に一晩の飲み代を費やすのもバカらしいので、小雨降る西新宿の街中を、僕たちはコインランドリーを求めて彷徨った。 あった!! 乾燥機が静かになるまでの1時間ほどを待たなければならなかったとはいえ、ホテルでお願いすることに比べれば10分の1の費用で済んだ。それに、洗濯が終わるのを待っている間、るるぶマップ東京を見ながらこの日の予定を立てることができた。 今日は………浅草へ!! あいにくの雨のなか、ホテルを経由して新宿へ。上野経由で浅草に行く。 で、毎月通っていたわけだから、いつでも行けたはず、観られたはずだったのに、勤めていた間はついに一度も観なかったものを、この日僕はようやく目にすることになった。 浅草といえば雷門だ。 浅草といえば、日中いつでも混んでる観光名所中の観光名所、さぞかし大勢の観光客でごった返しているだろうと覚悟していたら、思いのほか訪れている人は少ない。雨のおかげだ。 松下電器の宣伝が!!裏には松下幸之助の名前まで。 ……無知なる僕はこの場ではそう思ったのだが、実はこの雷門は、慶応元年、すなわち1865年に焼失して以来、およそ100年間に渡って仮設の門のままだったのだ。そこへ1960年、松下電器創業者松下幸之助が、病気平癒の報恩のために浅草観音へ寄進したのがこの新生雷門だったのである。 さすが世界の松下電器、寄進の桁が違う………。 で、雷門の寄進に併せ、この巨大提灯も寄贈され、現在に至っている。 この雷門の先に、有名な仲見世が続く。 人形焼だとかせんべいだとかお団子だとか、いかにも浅草といった食べ物が売られているほか、ブティックやら靴屋さんなどが入り乱れ、ようするに商店街なのだけれど、参道なのである。 この仲見世通りの先に宝蔵門、 そして浅草寺の本堂がある。 でっかい。 浅草寺ってこんなに大きなお寺だったのか!! 都内近隣にお住まいの方ならきっと当たり前なのであろう浅草寺、まったく無縁の場所にいる人間にとっては、都内の皆さんが宜野湾市の普天間神宮をあまりご存知ないのと同じくらいに知らない。 その立派な本堂の入り口で、ウートートー。 ところで、これらの巨大伽藍のほぼすべてが、東京大空襲で焼失の憂き目に遭っている。浅草全域が被災した関東大震災では、浅草寺境内はほぼ無傷で済んだというのに……。 ということが、本堂の傍らに設けられているプレートに書かれてあったのだけれど、僕はそこに一言だけ付け足したかった。 空襲により…と書かれてある部分に、是非 「アメリカ軍の…」 と書き足していただきたい。 大きな浅草寺の境内の片隅に、寂しげな神社があった。 浅草神社だ。 この三神とはすなわち、7世紀頃、浅草寺の本尊となる観音様を「発見」した人たち、つまり漁師兄弟と近所の物識り坊主を子孫が神格化したものなのだそうだけど、面白いことに、主祭神がもともとは人間であるということから、神社の格としては江戸一低いという。 東京最古の寺院にまつわる神社の神様は、江戸で最も格が低いだなんて………。 神仏の世界は、世俗の人間には難しすぎる。 さて、再び雷門を通り抜け、吾妻橋とウンコ載せビル(アサヒビール)を左手に眺めつつ、隅田川沿いに南下した。 春の うららの 隅田川〜♪ この歌を覚えた子供の頃に頭に描いた隅田川など、すでにその時点でこの世から消え失せているのだろうということは子供心にも想像がついてはいたものの、それでもやっぱり、初めて東京に来て、そして隅田川を初めて認識したときのガッカリ度は相当なものだった。 さて。 その駒形橋の袂にあるのが駒形堂。 駒形堂といえば、鬼平犯科帳や剣客商売でたびたび出てくる場所である。 浅草寺の本尊である観音様は、このあたりで陸揚げされたのだという。 ちなみに。 いやはや、無知とは恐るべし。 そんな感慨を抱きつつ、お堂に登ってウートートーをしたら、傍らにカップ麺の空き容器入りのビニール袋が打ち捨てられていた。 困ったことに見て見ぬフリもできないので、やむなく拾いはしたものの、大都会東京にはゴミ箱というものがない。 さて、このあといよいよ本日のメインイベント!! |