D雨の浅草(3月6日)

 すでに上京してから1週間となるこの日、一度埼玉の実家でクリアしたとはいえ、その後また溜まりに溜まっているものがあった。

 洗濯物だ。
 我々が滞在している西新宿ホテルにはランドリーサービスがあるものの、そこは東京のホテル、やたらと高い。洗濯機一つ置いといてくれりゃあいいものを…。

 洗濯に一晩の飲み代を費やすのもバカらしいので、小雨降る西新宿の街中を、僕たちはコインランドリーを求めて彷徨った。
 はたして新宿にコインランドリーなんてあるのだろうか。
 絶対にある!と言ってはいたものの、あまり自信はなかったのだが……

 あった!!
 いくら新宿とはいえ、そこにもちゃんと人々の生活があるのだ。

 乾燥機が静かになるまでの1時間ほどを待たなければならなかったとはいえ、ホテルでお願いすることに比べれば10分の1の費用で済んだ。それに、洗濯が終わるのを待っている間、るるぶマップ東京を見ながらこの日の予定を立てることができた。

 今日は………浅草へ!!

 あいにくの雨のなか、ホテルを経由して新宿へ。上野経由で浅草に行く。
 都内で働いていたその昔、毎月原稿を受け取りに行く行き先のひとつに浅草方面があって、その際は山手線で池袋から上野、そこから地下鉄銀座線で終点浅草まで、というルートだったので、この日妙に懐かしかった。

 で、毎月通っていたわけだから、いつでも行けたはず、観られたはずだったのに、勤めていた間はついに一度も観なかったものを、この日僕はようやく目にすることになった。

 浅草といえば雷門だ。
 地下鉄からの出口が多少違うとはいえ、毎月吾妻橋方面の出口に出て、駒形橋を渡っていたというのに、一度としてこの雷門を目の当たりにしたことがなかったのである。

 浅草といえば、日中いつでも混んでる観光名所中の観光名所、さぞかし大勢の観光客でごった返しているだろうと覚悟していたら、思いのほか訪れている人は少ない。雨のおかげだ。
 この雷門、雷門といえば大提灯。その巨大提灯をよく見てみたら、

 松下電器の宣伝が!!裏には松下幸之助の名前まで。
 なにもこんなところで宣伝しなくても………

 ……無知なる僕はこの場ではそう思ったのだが、実はこの雷門は、慶応元年、すなわち1865年に焼失して以来、およそ100年間に渡って仮設の門のままだったのだ。そこへ1960年、松下電器創業者松下幸之助が、病気平癒の報恩のために浅草観音へ寄進したのがこの新生雷門だったのである。

 さすが世界の松下電器、寄進の桁が違う………。

 で、雷門の寄進に併せ、この巨大提灯も寄贈され、現在に至っている。
 悪い話は永遠に語り継がれるけれど、善行は3日で忘れられるのがこの世の常。提灯の下に企業名を入れるくらい、許されてもいいだろう。

 この雷門の先に、有名な仲見世が続く。

 人形焼だとかせんべいだとかお団子だとか、いかにも浅草といった食べ物が売られているほか、ブティックやら靴屋さんなどが入り乱れ、ようするに商店街なのだけれど、参道なのである。

 この仲見世通りの先に宝蔵門、

 そして浅草寺の本堂がある。
 今さらながら、浅草寺って………………

 でっかい。

 

 浅草寺ってこんなに大きなお寺だったのか!!
 いやあ、全然知らなかった。
 しかも、仲見世通りにあった説明を読むと、なんと7世紀にその紀元があり、源頼朝も参詣しているというではないか。東京都内最古の寺院なのである。
 そんなに古くからあった寺だったとは……。

 都内近隣にお住まいの方ならきっと当たり前なのであろう浅草寺、まったく無縁の場所にいる人間にとっては、都内の皆さんが宜野湾市の普天間神宮をあまりご存知ないのと同じくらいに知らない。

 その立派な本堂の入り口で、ウートートー。

 ところで、これらの巨大伽藍のほぼすべてが、東京大空襲で焼失の憂き目に遭っている。浅草全域が被災した関東大震災では、浅草寺境内はほぼ無傷で済んだというのに……。
 空襲により、当時の国宝だった本堂も宝蔵門も五重塔も、何もかもが壊滅したのだ。

 ということが、本堂の傍らに設けられているプレートに書かれてあったのだけれど、僕はそこに一言だけ付け足したかった。

 空襲により…と書かれてある部分に、是非

 「アメリカ軍の…」

 と書き足していただきたい。
 妙な反米意識でそう言っているわけではない。反米というよりは、反「アメリカに対する遠慮」というところか。
 いずれにしても、そう書かないと、空襲というのがなんだか天災のような文脈に見えるのである。
 こういった美しい寺院でさえも灰燼に帰した空襲は、アメリカ軍がやったのだということを、ここを訪れる多くの外人、それもアメリカ人たちは知っているのだろうか??

 大きな浅草寺の境内の片隅に、寂しげな神社があった。

 浅草神社だ。
 明治以降の神仏分離政策によって浅草寺と分けられてしまったものの、もとはといえば浅草寺と一心同体だった。有名な三社祭もこの神社に祀られている三神のためのお祭りなのだけれど、一心同体だった江戸時代までは浅草神社なる名称はどこにもなく、「浅草寺のお祭り」だったわけだ。

 この三神とはすなわち、7世紀頃、浅草寺の本尊となる観音様を「発見」した人たち、つまり漁師兄弟と近所の物識り坊主を子孫が神格化したものなのだそうだけど、面白いことに、主祭神がもともとは人間であるということから、神社の格としては江戸一低いという。

 東京最古の寺院にまつわる神社の神様は、江戸で最も格が低いだなんて………。

 神仏の世界は、世俗の人間には難しすぎる。

 さて、再び雷門を通り抜け、吾妻橋とウンコ載せビル(アサヒビール)を左手に眺めつつ、隅田川沿いに南下した。

 春の うららの 隅田川〜♪

 この歌を覚えた子供の頃に頭に描いた隅田川など、すでにその時点でこの世から消え失せているのだろうということは子供心にも想像がついてはいたものの、それでもやっぱり、初めて東京に来て、そして隅田川を初めて認識したときのガッカリ度は相当なものだった。
 池波正太郎がその著作で語っているとおり、東京をこのように変えた人々というのはそもそも地方から出てきている人たちばかりで、もともと「東京」に愛のかけらも持っていないからこそ、ここまでの姿に変える事ができたのだろう。
 規模こそ違え、水納島に関わる行政を見ていると、至極納得できる話である。

 さて。
 カラフルな橋が幾重にも渡って架けられている現在とは違い、江戸時代においては、その戦略上の観点から隅田川に架ける橋は必要最小限に留められていて、吾妻橋の次の橋は、両国橋だった。当時は駒形橋など存在しなかったのだ。

 その駒形橋の袂にあるのが駒形堂。

 駒形堂といえば、鬼平犯科帳や剣客商売でたびたび出てくる場所である。
 橋がない分船で乗りつける場所は多数あって、深川で船に乗ってこの駒形堂そばの川岸で降りた、というシーンもあったはずだ。
 馬頭観音を本尊とするこの駒形堂は、平成15年に建て替えられて現在の姿になっているのだけれど、それ以前にも改装を幾度かくりかえしたにせよ、10世紀の昔、天慶5年にこの地に建てられて以来、ずっとここに建っているのである。だから、作中に出てくるのもこの場所。
 これだけビルが建ち並ぶ都市の中にあっては、なんだか俄かには信じられない話だ。
 しかもこの駒形堂は、浅草寺の建物なのである。
 なんで??

 浅草寺の本尊である観音様は、このあたりで陸揚げされたのだという。
 こんな小さなお堂に、大きな大きな歴史が詰まっているのだ。

 ちなみに。
 このすぐ裏に駒形橋がある。かつて原稿を受け取りに通っていた当時は、吾妻橋そばからここまでやってきて、そして駒形橋を渡ってちょっと行ったところが目的地だった。で、ちょっと小用を催し、この駒形堂の敷地にある公衆便所でスッキリしてから橋を渡ったことが何度も何度もあるんだけれど、ここにそんな由緒正しいお堂があったなんて、これっぽっちも知らなかった………。

 いやはや、無知とは恐るべし。
 というか、頭の中身一つで、同じ場所がまったく違って見えるのだから、知るは楽しみの始まりなりというのももっともである。

 そんな感慨を抱きつつ、お堂に登ってウートートーをしたら、傍らにカップ麺の空き容器入りのビニール袋が打ち捨てられていた。
 きっとこの袋を置いていった人には、この周辺は僕らには想像もつかないような場所に見えているのだろう。

 困ったことに見て見ぬフリもできないので、やむなく拾いはしたものの、大都会東京にはゴミ箱というものがない。
 しょうがないので、ちょっと歩いたところにあった灰皿の中に収納しておいた。
 パーフェクトな処置ではないものの、お堂に捨てておくよりはマシってことで、観音様も許してくれるかな………?

 さて、このあといよいよ本日のメインイベント!!
 それがあってこその、駒形堂までの散策だったのである。