目覚めると、この日25日日曜日もまた快晴だった。
部屋からメインロッジへの道のりは朝の張り詰めた空気(ずっと張り詰めているけど)が清々しく、北方千里の彼方、ブルックス山脈は今日もまた薄紅色に染まって僕らを出迎える。
昨日随分冷え込んでいたのに、今朝はマイナス10度!!
到着した日はこの気温でとてつもなく寒く思えたのに、ついに我々は、
マイナス10度で暖かい
という感覚がわかった気がした。
今日は何をしようか……。
いよいよ、この地で丸一日を過ごすのは今日で最後だ。思い残すことがないよう過ごしてみたい。
そう思いつつもいつもと同様ヨロコビの朝食を食べていると、ヒサさんが「よく寝たぁ」と言いつつロッジに現れた。
日曜日はピートを除くスタッフのお休みの日なのである。
さて、何をしようか。
絵葉書を出しに郵便局に行こうと思ったが、アメリカの郵便局もやはり日曜日はお休みだ。
とにかく散歩したかったので、昨日世話になった犬たちを見に行くことにした。
とはいえ、昨日は車で行き来したので、正確な道がわからない。
へべれけトミーとともに、休みなのにロッジにいたラッソルに道を教えてもらい、犬舎へ向かった。
ポカポカ陽気……というと大げさながら、無風の雪の道は、思わず歌を歌ってしまいたくなるほどに足取りも軽くなる。
暖かいということもあって、バニーブーツではなく家から履いてきた冬靴なので、足取りは本当に軽かった。
冬期よろず雑用係ラッソルが描いてくれた地図どおりに、テックテック道を歩いていたら、昨日世話になった犬舎にたどり着いた。
何を勘違いしたのか、40頭余もの犬たちはまた、
「やるぜ、俺はやるぜ!!」
と、いっせいに騒ぎ出した。あるものは自身が繋がれているポールをグルグル回り、あるものは餌入れをくわえてうろうろし、あるものは激しく吠えながらジャンプする。
すまぬ、犬たち、今日はドッグスレッドに来たんじゃないんだ……。
詫びつつ、犬たちと戯れた。
犬ぞりに使役させられている犬を見て、動物愛護運動家たちは眉をひそめるのかもしれない。なかには目くじらを立てる人もいるかもしれない。
実際、その方面からのクレームが入るからであろう、ドッグスレッド・レースのルールには、犬を気遣う項目がたくさんあるという。
はたして、犬ぞりの犬たちはかわいそうなのか?
昨日マックスが、犬たちをさして「ハードワーカーだ」と語っていたように、マッシャーたちにとっての犬とは、すなわち仕事を同じにする者たちなのではなかろうか。言ってみれば部下なのだ。
ひょっとすると、動物愛護運動家が犬に対して抱く気持ちよりも、格としてはワンランク上の愛の形がそこにはあるのかもしれない。
面白いことに、これだけ犬を飼っているというのに、マックスはペットとしての犬を2頭飼っている。体格は似たようなものながら、ソリを引く犬たちの扱いとは明確な差があった。そしてもちろん、部下もペットも幸せそうだった。
しばらく戯れてからその場を去ろうとすると、それまで騒ぎまくっていた犬たちは急にショボン……とおとなしくなった。なんだ、もう帰っちゃうの?って感じで全員がこっちを見ている。
二十四の瞳を遥かに超えるマナザシに見つめられると、その場を去るのがとっても罰当たりのような気さえするじゃないか……。
熱く寂しい視線を背に受けて帰路につくと、さっきまでの犬たちの騒ぎが気になったのか、近くの家から犬を連れたきれいな白人女性が出てきた。
「すみません、ちょっと観てただけです……」
と伝えると、彼女は微笑み、子犬もいるけど見る?と言ってくれた。
連れている犬、そして出てきた家から察するに……。
はたして、彼女はマックスの奥さんなのだった。
うーむ、やるな、マックス……。
子犬は昨日見せてもらったことを告げ、礼を言って犬舎をあとにした。
その後、さらにちょっと散歩した。
メインストリート沿いには、ウェザーステーションがあるというのは随分前に触れた。そこにはとってつけたような百葉箱があるので、何も知らなくともそういった施設であるという見当は付く。
いったい、ここでの気象観測や、24時間ネット上に映している現地リアルタイム映像がいったいなんの役に立っているのかは知らないけれど、ちゃんとスタッフが常駐していて、日々の仕事を営んでいる。
24時間態勢だから、夜中にも人がいる。
実はマッシャー・マックスは、冬の間このウェザーステーションの非常勤を副業にしているのだそうだ。毎日ではないが、夜中の12時から朝8時までの深夜勤務であるという。我々の犬ぞりの開始時刻が1時間ずれたのは、案外彼の睡眠時間に左右されただけだったのかもしれない。
それにしても、ここベテルス/エバンスビルは、水納島と変わらぬサイズの村だというのに、いろんな施設が備わっている。そしてまた、それが直接村人の仕事に結びついてもいるようだ。
造りっぱなしで何も島の生活とリンクしてこない水納島のヘンテコな公共工事の建物とはえらい違いだなぁ……。
さらに滑走路の周りなどをちょこっと歩いたあと、とりあえずいったんメインロッジに戻って暖をとることにした。紅茶がうまい。
そこでのんびりしていると、ヒサさんが村の人たちと一緒に4駆のトラックに乗ってやってきた。
僕らの滞在中、これまでも何度かロッジに来ていた村の人たちだった。僕らゲスト同様、村の人たちもロッジで自分の家のようにくつろぐのである。民宿大城のバーベキュースペースを思えばわかりやすいかもしれない。
しかしこの日は違った。なにかの準備をしているようだ。
日曜日はみんな休みらしいから、どこかへお出かけするのかな?
するとヒサさんが入ってきて、
「これからみんなでソリをしに行くんですけど、一緒に行きませんか?」
へ?
ソリ??
とにかくこれから出発するので、行くのであれば着替えておいで、という。
何がなんだかわからなかったが、着替えてオーロラロッジの前で集合ということに。即座に部屋に戻ろうとすると、
「車で送ってあげる!!」
と、ダンプ母ちゃんワイオマがいう。あのぉ、すぐそこなんですけど……。
目と鼻の先でも車を使うのは、水納島と同じだった。
車に乗せてもらうと、そこにはワイオマの愛娘シャイアナがいた。9歳ながらうちの奥さんと同じ背丈の小学生である。もっとも、学校が無くなったので通学はしていないのだが……。それでも平日は学業があるらしく、日曜日は彼女にとってもビューティフルサンデーなのだろう。
部屋に戻り、ついでにコービィ石橋さんにも声をかけてみるのだが、部屋の中から返事がかえって来ない。どこかへ散歩しているようだった。ああ、コービィさん……
着替えて乗車。車は2台あって、僕らが乗った車の前席には、ワイオマ親子とやんちゃなジェイクが乗っていた。ヒサさんはもう一台の車なので、車内はイングリッシュ・アドベンチャーである。
ソリというのはわかったが、いったいどこへ行くというのだろう?荷台にはソリグッズのほかに、巨大な丸太が載っている………。
狭い村内を巨大な車が驀進する。
道々停まり、誰かと何かを話しては何かを積み、そしてどこかへ行っては誰かと話していた。ときおり、彼女は私のいとこなのよ、とか、いろいろワイオマは説明してくれるのだが、ただでさえかいつまんでいる会話がこれまた聞き取れないから、僕らが得られる情報は限りなく断片的なのだった。
どうやら、村に住むかなり多くの人がいっせいに行動を起こしているらしい。
なんだ、なんだ、いったい何が始まるんだ………?
だからソリだってば。
得体の知れない期待と一抹の不安を乗せ、ワイオマの4駆はメインストリートを南に折れ、1本の雪道を快調に走り始めた。
車内では、やんちゃなジェイク(17歳)とシャイアナがふざけてはしゃいでは、ワイオマに叱られ、静かになってはまたはしゃいでいた。ワイオマが我々に振り返り、
「キッズ!!」
と苦笑いする。
最初ははにかんでいたシャイアナは、だんだん慣れてきてくれたのか、持ってきたチョコやキャンディをくれたりした。バレンタインデーにはちょっと早いけど、美味しい美味しいチョコレートだった。
快調に飛ばし始めた車は、ワイオマとジェイクの会話のあとに突如停止し、Uターンした。何か忘れ物か?
すると、先ほど立ち寄った小さな家にまた立ち止まり、ジェイクが入っていった。そして戻ってきた手にはCDが。
もしかしてそのためだけに??
その後、車内はそのCDミュージックとなった。
ボリュームを上げたがるジェイク、うるさいといって下げるワイオマ。どっちでもいいから楽しいシャイアナ。にぎやかな4駆は雪の一本道を行く。
この道って、昨日犬ぞりで通った道なのではなかろうか……。
トウヒの森が左右に広がっていた。午後1時30分にしてすでに夕陽だ。心安らぐ暖かな色が地平線を縁取るように染めている。
そんな道を、一直線に進む4駆の車。車内にはアメリカンの親子と少年がいて、スローテンポなロックミュージックがBGMに……。
まるでハリウッド映画の1シーンのようだ……。
そうワイオマにいうと、彼女はまんざらでもなさそうに小さく微笑んだ。
そして車は、さらにずんずん進んでいく…。
対向車が来たらギリギリかも、という道を、ぐんぐん進んでいくワイオマ号。ヒサさんが乗っている車はどこに行ったのか、前にも後ろにも姿は見えない。
左手にグンと存在感を持ってそびえる山を指差し、ワイオマは
「ジャックマウンテン」
といった。
それを手がかりに後刻地図を見て調べたところ、どうやらこの道は冬期限定の道であるらしい。
雪深くなる冬に閉ざされるのではなく逆に冬期だけとはこれいかに?
それは、広大な大地のあちこちに流れるたくさんの川の存在による。
夏は水が溢れていても、冬になると凍結した上に雪が積もるので、車の通行が可能になるわけだ。
冬にそうなる日本の山間部と違い、ベテルスは夏に陸の孤島となる。
この冬期限定の道をこのままずっと突き進むと、ダルトンハイウェイという、フェアバンクスと北極海を結ぶ道路に繋がる。
まさか北極海に行くわけはないが、それにしてもいったいどこまで??
途端にオタマサになるうちの奥さんとは違い、場のために一応ときおりジョークを言ってみる僕ではあったが、ワイオマはそもそもある程度日本人観光客慣れしているらしく、何かと気を遣っては我々に言葉をかけてくれていた。
道中、
「ケイコを知っているか?」
と訊かれた。
まさか僕が知っている何人かのケイコさんのことではないだろうから、いったい誰のことかと問うと、それはどうやら女優・声優の戸田恵子のことだった。
自慢じゃないが、僕は彼女がマチルダ中尉の声をやっていた頃から知っている。だから知っているというと、
「連絡先を知っているか?」
と、ワイオマは真面目に訊いてくる。
いや、知っているってのは僕が彼女を、であって、彼女は僕を知るはずもない、そう説明すると、彼らはがっかりしたようだった。
何年か前に戸田恵子がベテルスにプライベートで来たことがあって、彼らは彼女とすっかり打ち解けたのだそうである。ワイオマは連絡を取りたいのだが、残念ながら連絡先を知らないのでどうしようもない、ということのようだった。
アラスカで有名な日本人といえばまず写真家・星野道夫だろうと思っていたら、ここベテルスではどうやら戸田恵子さんのようである。
どなたか、彼女と連絡がつく方、ベテルスのワイオマが連絡を待っているとお伝えください。
車はひた走る。
ときおりでこぼこがひどいところもあったが、おおむね道は整備されている。
いったい、これほど通行量が少ない道を、わざわざ冬に誰が整備しているのだろうか。
それを訊ねてみると、ワイオマは「市だ」といった。ベテルスはもちろん村である。ここらでいうシティというのはフェアバンクスのことなのだろうか……。よくわからないが、行政サービスであるようだ。金は行政が出し、仕事は地元が受け持つのだろう。沖縄では毎年同じ場所を同じように掘り返すけれど、ここでは雪を掻き分けるだけですむ。
そんな道を走りながら、ときおりワイオマは
「ここはベテルスから6マイルだ」
「ここは9マイルだ」
と教えてくれた。
でも、僕らが見る限りどこにもなんの目印もない。
どうやって距離がわかるのだ?と問うと、ワイオマは当然のように言った
「知っているからよ」
そうしてベテルスから離れるにつれ、道々に動物の痕跡が目立つようになってきた。
しきりに、ワイオマたちが、
「プープ!」
「プープ!」
と地面を指差していう。
プープ?
あ、糞か!
カリブーのプープだという。
カリブーか……。食ったなぁ……。
その昔吉永小百合が歌っていた、奈良の鹿の糞のような丸く小さなコロコロを、何度も何度も目撃した。やっぱり、本当にいるんだなぁ……。
時には10万頭を越えるほどの巨大なカリブーの群れが、眼前を駆け抜けてくれたこともあったという星野道夫は、カリブーを求めて20年近くにも及ぶ長い長い年月をかけていた。
アラスカに来てまだ一週間にも満たない我々には、このプープ程度がふさわしい。
ジェイクが、プープとは日本語ではなんというのだ、と訊いてきた。
プープに対応するのはウンチなのかもしれなかったが、動物の、という意味では
「フン」
だろう。そういうと、彼はそれからしばらく「フン」をいたく気に入り、フンフンとご機嫌に口ずさんでいた。
そしてやおら訊ねる。
「頭は日本語でなんという?」
「アタマ」
すると彼は自分の頭を指差し、
「フンアタマ!フンアタマ!」
といって悦に入っていた。