6・ 福江をさるく・2〜名所旧跡編〜

 商店街だけではなく、今宵探訪予定の飲み屋さんの場所の確認がてら、そのまま町はずれにある川沿いに出てみた。

 福江川である。

 その河口がそのまま現在の福江港になっている川で、古来より人々の暮らしに密接にかかわっていたらしい。

 その川に沿って下流方向へ歩いていると、上空でホバリングしていたミサゴがやおら急降下し、水音をたてて水中にダイブ!!

 そしてなんと、銀色に光るボラのような魚をゲットしてるではないか。

 渡久地港でミサゴがダイブするのは見たことがあったけど、ゲットしたのを見たのは初めてだ。

 絶好のシャッターチャンスを逃してしまった……。

 かわりに、水面に浮かぶカモなどを…。

 どうやらコガモ(子どものカモという意味じゃなくて種類です)らしい。
 このカモはこの後いたるところで観ることができた。

 このあたりから下流はほぼ河口域のような塩梅ながら、水中には鯉の姿が見えているから、ほぼほぼ淡水なのだろう。

 そのまま川沿いを行くと、ほどなく唐人橋が見えてくる。

 その橋詰めにポツンとあるのが、明人堂。

 雰囲気は横浜中華街で観た関帝廟に似ている。

 もっともワタシなどは、明人堂と聞いても、「3時のおやつは明人堂〜♪」と口ずさむ程度の知識しか持ち合わせていない。

 <それは知識でもなんでもないと思います。

 調べてみると、本土の戦国時代の頃、のちに倭寇の頭目になる明の貿易商・王直が、福江領主から交易の許可を得、居留地としてこのあたり一帯を与えられて住まうようになったため、のちにこのあたりを唐人町と呼ぶようになったのだとか。

 遣唐使の昔から、海の向こうの人たちは、たとえ国の呼び名は変わっても「唐人」なんですな。

 明人堂はその当時に航海の安全祈願として建てられたそうなのだけど、この建物は平成の世になってから建て直されたモノという。

 また、福江川岸には交易に使われていたのであろう荷揚げ場が近年まで遺されていたそうだ。残念なことに福江川の河川改修の際に失われてしまったらしい。

 そういう歴史的遺構を残す努力をしていてこそ、教会を世界遺産に、という声にも耳を傾けてもらえると思うのだけどなぁ…。

 猛々しい土木行政の進撃のために、明の海の男たちが暮らしていたであろう福江中華街(?)の名残りは、この明人堂のほかに、すぐ近くにある六角井と呼ばれる中国仕様の井戸しか残っていないそうな。

 その六角井とはこれ。

 六角形であるところが中国式なんだって。
 福江中華街に住まう明人たちや貿易船が、飲料水として利用していたという井戸。
 今もなお水を湛えてはいるけれど、井戸としては現役ではないようだ。

 この六角井、ちょっとした公園内にあるものなのかと思いきや、この場に来て驚いたことに周りはまったく普通の住宅地で、すぐ隣に家がある。

 井戸自体も普通に道路沿いにあるから、そのたたずまいだけを見て往時の中華街を想像するのはかなりムツカシイ。

 一方、この井戸のそばを通る幹線道路に掲げられている道案内標識がなかなかいかしている。

 3メートル!! 

 車道に設けられた自動車用道案内における、最短距離記録を樹立した。

 このあと再び商店街方面に行き、引き続き魅惑的飲み屋の場所確認をしたあと、港のほうへ出てみた。

 すると目の前にあったのが、これ。

 常灯鼻と呼ばれる、昔の灯台&堤。

 今でこそ埋立地が沖へ沖へと広がり、一大港湾施設になっているここ福江港も、江戸の昔はすぐそこが外洋で、大波小波はここまで達していたに違いない。

 幕末になって日本近海が風雲急を告げる中、幕命により海上防衛用築城をこの地に許された藩主五島氏は、築城工事が妨げられないよう防波堤を造った。それがこの常灯鼻なのだそうな。
 堤の先には灯りがともるようになっていて、灯台の役目も果たしていたという。

 この常灯鼻が押し寄せる波濤を防ぎ続けてくれたおかげで完成した城が、石田城。

 江戸時代に入るまで領主五島氏は、福江川を遡った先にある丘に建てた江川城を居城にしていたのに、なんとも間の悪いことに江戸期早々に焼失させてしまい、以後ずっと城無しホウイチになってしまったそうな。

 とりあえず石田陣屋を仮藩庁にしつつ、幕府には築城の許可を求め続けたものの、実現しないまま時代は幕末に。

 日本を取り巻く諸外国の影響がきっかけとはいえ、ようやく長年の夢がかなって完成した石田城。
 日本で最も新しい、すなわち一番最後に完成したお城でもある。

 今はすっかり街中になっているけれど、往時は城の北東側面が海に接するれっきとした海城だったそうな。

 その名残を今に留めているのが、石田城跡の外堀公園にあるお堀。

 この日夕刻に撮った上の写真と、後日異なる時刻に撮った下の写真を見比べれば一目瞭然。

 いささかアングルが異なっているけれど、言わんとするところはおわかりですね?

 そう、潮の満ち干で水位が違っているのだ。

 つまりこのお堀の水は、海水なのである(この堀にもコガモをはじめとする水鳥たちがたくさんいる)。

 往時はまさにこの石垣が海岸線になっていて、城の中には海に向けて放てるよう砲台が備えられていたという。

 もっとも、せっかく完成したお城だったのに、9年ほどで明治の世を迎えてしまい、あえなく解体の憂き目にあってしまったそうな。

 そんなお城が、今では……

 長崎県立五島高校になっている。

 かつてのお城の裏門が正門に。

 我が母校琉球大学も、我々が入学した西原キャンパスに移転する前は、当時の首里城跡地(現在の首里城)をキャンパスにしていたし、一昨年訪れた金沢でも、かつての金沢大学は金沢城跡地にあったそうだから、学校が城跡にあるというのは、全国的に見るとさほど珍しくはないのかもしれない。

 でもこの高校は、こうして正門を入った後にはまだ内堀まであって、その石垣や橋をはじめとする遺構も往時のままというから、なんとも趣がある。

 しかも学校の西側からこの正門に来ようとすると、まずくぐることになるのがこちら。

 石田城の西側にある外堀で、堀を渡る橋の先に蹴出門と呼ばれていた門がある。

 さきほどの校門に行くにはここを通っていくことになるから、五島高校の生徒にとってここは通学路なのである。

 家を出てただ田んぼの畦道を行けば高校だったワタシの通学路を思えば、なんともうらやましいかぎり。

 でまたこのお堀の眺めが素晴らしい。
 普通に道路に面している場所ながら、広い範囲で遺されている堀には水がたっぷり湛えられていて、城跡の中には緑がいっぱい。

 そして先ほどの外堀公園の堀とは違い、こちらのお堀は真水。
 しかもこんな感じで水が常時湧き出ている。

 モーターか何かを使って循環させているだけかと思いきや、どうやらこれは天然の湧水を利用した作りらしい。

 だから堀の水はとってもきれいで、水底にはオオカナダモのような水草が繁茂しているし、群れ泳ぐ錦鯉の姿も日立キドカラーのCMのようにクッキリハッキリしている。

 いずれにせよ、ただ淀んでいるだけの水とは違うからかことのほか居心地良く、まるでローマ滞在時のトレビの泉のように、この後何度も何度も訪れることになってしまった。

 このお堀から、道路を挟んでお向かいにあるのがこれ。

 コンビニ「RIC」。

 どこぞの大手の系列なのかどうかは知らない。ともかくこういう名称のコンビニなど、他で観たことはない。

 空港から乗ったタクシーの運ちゃんによれば、このコンビニは5、6年前くらいから展開し始めたそうで、今では福江島内に何店舗かできているという(滞在中そのうち4店舗は目にした)。

 その中でも唯一この店舗だけが、24時間営業なのだそうだ。

 運ちゃんいわく五島オリジナルコンビニということだったので、せっかくだから買い物をすることにし、ゲットしたのがこれ。

 ポテトチップスあごだし味。

 全国にその名が轟くカルビー製とはいえ、さすがにこれは沖縄では手に入るまい。
 もっとも、後刻食べてみたところ、コンソメ味とどこがどう違うのか、ビミョーなところはあまりわからなかったけど……。

 さてさて、到着後早々の散歩も済んで、ホテルに戻ればしっかり腹が減ってきた。

 ひとっプロ浴びて、いよいよ福江島の夜の海に繰り出すのだ!!