11・運命の35キロ地点

 このマラソンを走るに際し、僕にはひとつだけ秘密兵器があった。
 …というほど大げさなものではない。ソニーのウォークマンである。
 かつて我々が少年だった頃は、ウォークマンといえばカセットテープを入れるものだったのだが、それがいつしかCDで聴けるようになったかと思ったらMDになり、そして今では、
100円ライターよりも小さな機器に何百曲もの音楽が収録できるという、スタートレックの時代になっている。

 カセットやCDのウォークマンを携えて走るのはごめん蒙りたいところながら、これだけ小さければなんの負担にもならない。
 なので、練習中にもその力をいかんなく発揮してもらった近代兵器を、本番にも持参していた。

 周囲の風景を眺めつつその音も楽しむ、ということもたしかに楽しいものの、長丁場の時間の経過を紛らわすためには音楽は欠かせない。
 実際、序盤の1時間ほどはかなりあっという間に感じられた。
 この調子なら……

 …とここまで来たものの、ここに来て、ついにイヤホンを耳に入れていることすらうっとうしくなってしまった。
 本来はヒーリングに向いているはずの音楽も、その呑気さがかえって腹立たしい。

 音楽一つ聴くのも億劫になっているほどだから、筋肉疲労は相当なもので、30キロ地点を通過したときには、2.5キロごとの給水所すら気が遠くなるほどの遠い遠い目標になっていた。
 なにはともあれ
30キロ。

 ついにここまで来たのか………。

 ここに至るまでの来し方30キロに比べれば、残り12.195キロなどハナクソのようなもの……

 …と思うでしょ?
 でもねぇ、そうじゃないんですよこれが。
 これまでの
30キロなどというのはすべて前フリ。
 ここからが。
 ここからが本当のフルマラソン人生劇場の始まりだったのだ。

 30キロ地点から次の給水ポイントに向かう間に、僕はもうこのままのペースではとても走り続けられないであろうことを確信していた。
 なにしろ脚にまったく力が入らないのである。
 どこかが痛いの痺れるのだったらガマンすればなんとかなる。
 でも力が入らないとなると、根性の持って行き場がない。

 スローダウンを余儀なくされるであろう僕とこのまま一緒に走り続ければ、両者共倒れになってしまうかもしれない。
 せっかくここまで来たのだから、うちの奥さんには自分のペースで走ってもらったほうがいい。

 そこで、32.5キロ地点の給水所で、ここまでずーっと一緒に走ってきたうちの奥さんと訣別することにした。
 いつもは見せない神妙な顔をしつつ、彼女はそのまま走っていく。

 背中がだんだん遠ざかっていく。
 僕はしばし歩く………。

 しかしだからといっていつまでも歩いていていいわけではない。遅くとも35キロ地点に達する頃には、制限時間まで1時間を残しておかないと、1キロ8分ペースで走ってもタイムリミットまで間に合わない。
 脚の状態を考えると、たとえ残り1時間あったとしても、残り
7.195キロを1時間で走れる自信はなかったのだが、ともかく今はしょうがない。

 1キロなんて距離は、車だとあっという間だ。
 序盤なら、走っていてもわりと早く感じる。
 ところが、疲労困憊中に歩くとなると、これがとてつもなく遠い………。
 もう
34キロ地点になるかなぁ…とおぼろげに考えているところに距離標識が。

 33キロ。

 え゛ッ…………?
 このガックリ度がまたキツイ。

 このまま歩き続けていると、たしかに残り1時間を有して35キロ地点に到達できはするだろう。でも、前述のとおりそこから制限時間内にゴールする自信がない……。

 ここはひとつ、もっと早めに35キロ地点に到着すべく、少しずつ走るとするか……。

 で、走ろうとすると……
 力が入らん!!
 かなり序盤から、走っては歩き、走っては歩き、を繰り返している人たちは周りにたくさんいた。
 でもそれは若いからこそできることで、ロートルになるとその繰り返しはかえって足腰に負荷を与えるだろう。それよりは、遅いペースでいいからなるべく走り続けよう、というのが我々の作戦だった。

 今こうして走り続けることができなくなり、やむなくしばらく歩いてからいざ走ろうとすると、脚が脳の指令をきいてくれない。
 うーむ、何たる事態だ。
 そこかしこに、立ち止まってはストレッチをしたりマッサージをしたりしている人がいる。きっとみな同じような境遇なのだろう。

 走っては歩き、走っては歩き……を繰り返しながら、時おり立ち止まってはマッサージしつつ、それでも35キロ地点を目指す。

 そうこうするうちに、ようやく、ようやく35キロ地点にたどり着いた。

 時計を見れば、残りあと1時間15分。
 まだ、走れば充分間に合う。
 走れば……。

 黒砂糖を頬張り、水分を補給しながら、しばらく脚のマッサージ。
 でも、もう脚はうんともすんとも言ってくれない。

 ここから歩いても間に合うのだったら、このまま最後まで歩きとおしていたい。でも、残り7キロ余を1時間15分で歩いていくのはちょいとムツカシイ。
 どこかで走らねば。

 どこかで走らねばならないのだったら、とりあえず今走ろう……。
 そうして再び走り始めたものの。
 ダメだ、力が入らない。

 ああもう、すべてを投げ出してその辺の石垣に腰掛け、日が暮れるまで脚をプラプラさせつつ口笛など吹いていようかなぁ………。

 そうだ、もう休んじまえ!!
 やめちゃえやめちゃえ!!

 耳元の悪魔の声が、まるで天使のささやきのようですらあった……。

 そのとき!!
 前方に我が目を疑う光景が!!

 えっ??まさか………まさか!?

 どうしたヤマトよ!?
 君は再び、海の底で沈黙してしまうのか!?
 地球人類滅亡まで……………あと1時間10分!!