46・カエサルの家

 3月7日の朝。
 まさかの「もぬけのトレヴィの泉」状態を眺めたあと、再びコルソ通りに戻って南下を開始。

 昨夕のローマ到着時は街の規模に圧倒されたけれど、それから2度外出して、コルソ通りのような大通りに出てしまえばとりあえずなんとかなるかも……って気にはなっていた。

 立派な建物に挟まれたコルソ通りを南下すると、最初から視界の正面にデンッと腰を据えているのが、純白の衣装に身を包んだヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。

 その手前にあるヴェネツィア広場は、ローマの旧市街の中心になる。パレルモで言うならクアットロ・カンティのような場所だ。
 ただし道の広さはもその交通量もパレルモの比ではない。
 一見しただけでは横断不可能にすら思える。

 でも、ちゃんと信号はあるのだった。
 おまけに、かなりテキトーに走っているように見える車は、歩行者が横断中の横断歩道ではちゃんと停まる。
 だからといって、日本のように「赤信号だから車は停まる」と盲目的に信じて歩いてはいけない。
 横断中のみなさんを観てみると、みんな必ず眼で車を停めている。

 めぢから。

 近寄ってくる車をちゃんと観ることによって、その視線がドライバーに伝わり、ドライバーもキチンと歩行者を把握できるのである。
 日本の多くの歩行者のように、他者とは視線を合わせないという習慣を横断歩道でも実践してしまうと、ドライバーとのいわゆる「アイコンタクト」が為し得ない。
 アイコンタクトがあれば防げていたかもしれない事故って、数多くあるんじゃなかろうか…。

 さて、このヴェネツィア広場の脇から眺めるヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。

 この眺めは、このシーンでおなじみだ。

 
ローマの休日より

 そう、不朽の名作「ローマの休日」。
 グレゴリー・ペックがオードリー・ヘプバーンと2ケツしてべスパを乗り回すシーン。

 ローマの観光に関しては、もともと僕は塩野七生の「ローマ人の物語」が好きなこともあって、基本的にローマ時代に的を絞って歩いてみようと思っていた。

 ところが、旅行直前に発せられた父ちゃんの予想外の発言。

 「ガイドブック借りたんだけどよぉ、遺跡ばっかりでわけわかんないから勉強するのはあきらめた」

 てっきりそういう遺跡と歴史にこそ興味があるものとばかり思っていた僕にとってはまさに予想外。
 ただ、シチリアについてもローマについてもなんら下調べをしてこなかった父ちゃんながら、事前に送っておいた「ローマの休日」だけは久しぶりに観た、と言っていた。

 だったら、ローマ時代の遺跡を巡りつつ、基本は「ローマの休日」で行こう!

 ……という作戦に変更している。
 なのでこのあと、続々と「ローマの休日」が出てくることを読者は覚悟せねばならない。
 あ、僕たちも旅行前に久しぶりにこの映画を観たんだけど、今観てもかなり面白いっすよ。
 今風のCG多用型映画や3Dに食傷気味の方々にオススメ。

 その白亜の建物の脇を通り、広い階段を登ってたどり着いたのはカンピドーリオの丘。ローマ時代のようにラテン語で呼ぶならカピトリーノの丘だ。

 ローマが国としてこの地に産声をあげた当初は、この周囲にならぶ7つの丘がすべてだったそうで、なかでもこのカピトリーノの丘には最も神聖なユピテル神殿が建てられたいたのだとか(下の写真右側に写ってる美術館のあたりに建っていたそうな)。

 その後帝国となった全盛時も絶えることなく神聖な場所として存在していたこの丘も、今では美術館や市庁舎が建ち並ぶ美しい広場になっている。<ちなみにミケランジェロ設計。

 その広場の真ん中におわします方こそ、我らがマルクス・アウレリウス。


ページの背景のシルエットはこの像です

 なんで「我らが」なのかってのは、ホテルの近くに彼の記念柱があるから、ですからね。

 この騎馬像はレプリカで、ホンマモノは傍らにある美術館にあるってことは知っていたけど、こんなにでかいものだとは知らなかった……。

 ローマ時代にはギリシア彫刻がいっそう研ぎ澄まされ、数々の像を眺めることが金持ちにとっても庶民にとっても娯楽の1つになっていたそうで、時の実力者が造る公衆浴場などには、周りに多数の像が並び立っていたという。

 ところがキリスト教社会になって、そういった「像」の価値が一切否定されるやいなや、中国の文化大革命なみに数多の美術工芸品が破壊されてしまった。

 現在目にすることができる当時の作品は、たまたま、もしくは意図的にその難を逃れ、ルネサンス以降、上代のモノの価値が再認識されるようになってから再び脚光を浴びたものである。
 そのコレクターの筆頭が歴代ローマ法王ってのも笑えるけど……。

 このマルクス・アウレリウスの優雅な騎馬像も、奇跡的に破壊の難を逃れたものが、これまた奇跡的に発見されたからこそ、今日の雄姿があるわけだ。

 そんなマルクス君の歓迎を受けつつ、我々が目指すのはここにあるカピトリーノ美術館ではなかった。
 美術館と市庁舎の間を抜けていくと……………

 フォロ・ロマーノ!!
 ずっと写真でしか観たことがなかったものが、今目の前に……。

 こういう小さな写真で観るとチッポケなセットみたいに見えるのはなぜ??
 でも肉眼で観ると違うんですって。
 やっぱホンマモノはすごい。なにしろ……

 でっかい!!

 こうして眺めていると、手前のサトゥルヌス神殿は、カエサルが軍団を従えてローマに進入してきたときに軍資金を調達した国庫があったところですよ、とか、そこの凱旋門はセプティミウス・セヴェルスの……とか、その他なんとかかんとかなどどうでもよくなる。

 フォロというイタリア語は、ラテン語ではフォルム。
 今では日本語になっている「フォーラム」の語源だ。
 フォーラムの意味からわかるとおり、当時はこういうフォルムで市民集会が催され、数々の決議がなされていたという。

 ギリシアの都市国家で見られた直接選挙制をある程度は踏襲していたこともあって、国の規模が小さかった当時のローマでは、すべてがここで決定されていた。
 有名な元老院の跡もある。

 が、やがてローマ自体の勢力範囲が広がっていくにつれ、そういった制度ではモノゴトを動かすのに限界がある、と考える人が出てきた。
 ユリウス・カエサルだ。
 国の意思決定の方法を、従来の「規則」を優先するか、実態に即した実効性を優先するか。

 合理的な考えの持ち主が後者を選ぶのは当然だった。
 なにしろ当時のローマは、すでに彼の活躍でガリア地方(現在のフランスのほぼ全域)を手中に納め、北アフリカ、エジプトその他、地中海周辺を網羅した版図を誇っていたのだ。

 巨大な版図を流れる動脈血を、どのようにしたらタマネギたっぷり食べたサラサラ血液のようにすることができるか。

 その答えの1つが帝政だ。
 彼の目指した道はそこだった。
 歴史的にはローマ帝国の初代皇帝はアウグストゥスながら、実質的な初代皇帝はカエサルであると言われる理由がそこにある。

 ルビコン川を越えて「賽は投げられた」あとの彼の活躍はみなさんご存知のとおり。
 で、そのカエサルが、「ブルータス、お前もか!」で暗殺されるまで、ずっと住み続けていた家が今もなお残っている。

 ローマ史上最大の権力を手にしたカエサルの家。地中海世界を事実上その手に握った権力者である。さぞかし大邸宅なのかと思いきや……

 小っさッ!!

 これはフォロ・ロマーノ内にある、最高神祇官公邸跡。
 共和政時代のローマには、ローマの神々に対する神事を司る「最高神祇官」という公職があった。本来は政治とはほとんど無縁の公職だ。
 ただこの公職には、他の政治的な公職にはない特徴があった。
 任期がなかったのだ。

 本人にその気さえあれば、死ぬまでその職に就けたのである。

 執政官であれ非常時の独裁官であれ、共和政下のローマにおいては必ず「任期」があった。どんなに力をもっていようと、そのルールの範囲内ではその座に居座り続けることができなかったのだ。

 そこでカエサルが目をつけたのが、任期がない「最高神祇官」の職。
 彼がローマの神々に対してどこまで敬虔であったかは知らないけど、まず第一の目的は、ずっと公職に就いていられるという「特典」だったのは間違いない。

 その「ウマミ」に気がつくあたりが、我々凡百の徒とはまったく違う次元の人ってことなのだろう。

 ともかくそんなわけで、カエサルはローマの実権をすべて握ったあとも一応「最高神祇官」であり続けた。そしてその職について以来、彼は死ぬまでずっとこの公邸に住み続けたという。
 本人が望めば、豪邸などいくらでも造れる立場であったのは言うまでもない。
 ちなみに暗殺された日も、この公邸から登庁(?)したそうだ。

 カエサルが政治家としてどうだったかというムツカシイ話はさておいて、広大な版図を有する国の実権を握っている人が、こんなに小さな家に住んでいたという話ひとつとってみても、彼が賽を投げた動機が、私利私欲に満ちた権力の魅力ではけっしてなく、ひとえにローマを思う気持ちゆえであることがわかる。
 今の世の政治屋さんたちの姿を見ていると、無性に清々しく感じられる。

 でもこれはあくまでも彼の一面だけを見た、美化しすぎの話かもしれない。
 彼自身も2000年前に書き残している。

 人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。

 2000年経っても、人類ってこの当時から基本的に進歩してないんですね……。

 この最高神祇官公邸はフォロ・ロマーノ内にある。
 我々はカピトリーノの丘からフォロ・ロマーノを眺めたあと、そこに入る前にちょっと寄り道をしていた。