56・朝の歴史散歩

 明けて3月8日。
 高齢者の朝は早い。
 というか、我々夫婦はすでにローマにいる頃にはすっかり現地の時間に馴染んだものの、父ちゃんは相変わらず寝られないようで、2時、3時頃からワインを飲んでは横になり、ウーウー唸りつつ、6時には活動を開始する。

 朝のトイレはゆっくりのんびり……という生活信条を持つ僕としては、その父ちゃんの活動開始時間(つまり風呂に入っちゃう)よりも前にトイレに行っていなければならない。

 必然的に朝が早くなって、みんなが活動し始める頃にはすっかり身支度を終えている。

 なので、しばしの自由を求め、一人で早朝の散歩に出てみた。

 LIBERTA!!

 これがまた………

 心地いいッ!!

 夕刻の人混みがウソのようにひっそりと静まり返った街。
 そして鳥の声、カモメの声。

 早春の空気にピリリと身を引き締められつつ、まだ街灯がともる街を歩いてみた。

 そして驚いたことが。
 朝が早いのは、高齢者だけではなかった。
 道々のキオスクからバールから、まだ6時過ぎだというのにみんな営業を始めているではないか。


朝6時20分。

 しかもそれぞれにもう客がいる…。

 イタリアといえば、とかくのんびりで、お昼休みもたっぷり長く、あんまり働かな〜い……ってなイメージを勝手に抱いていた僕は、誤解していてゴメンなさいと素直に謝った。

 みんな働き者じゃないか!!
 ビックリ。

 まだ街灯がともってはいるものの、街はすでに稼動状態なのである。
 そんなホテル近辺で真っ先に行ってみたかった場所がここ。

 ハドリアヌスの神殿跡。
 我々が泊まっているホテルのすぐ裏の、ピエトラ広場にある。

 ローマ帝国の最盛期、五賢帝時代の皇帝は、ネルヴァ、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、そしてマルクス・アウレリウスと続く。
 その中核の一人、ハドリアヌスを讃えて後継者アントニヌス帝が建てたのがこの神殿だ。

 柱の高さは15m。例によってでかい。
 そしてその基部も発掘が進んでいた。

 今の地上の4m下が、このあたりの当時の地上だったのだ。
 夜になるとここに並ぶライトが灯り、神殿跡がライトアップされている。
 ここの電気料金をいったいどこが負担しているのかは知らないけれど、ここに限らず、様々な遺構がライトアップされているローマでは、用いられている照明は暖色系のみ。
 各店舗も、通りの街灯も暖色照明。

 条例でネオンサインが禁じられているのだ。

 旧市街とはいえ首都のど真ん中なのに、ちょっとした路地など、ともすれば「暗い」とさえ思えるほどの光量しかない。
 これすべて、古都の景観を守るため。

 この遺構は神殿の北側部分の一部のみで、建物自体は、現在は証券取引所になっている。
 ……って、つまり2世紀に造られた神殿の一部が、現役の建物の壁の一部をなしているのだ。

 そういえば、カピトリーノの丘にあったローマの市庁舎も、2000年前は公文書館だった建物の上に造られている。
 けっして大地震がないわけではない土地で、2000年前の建物の上に現役の建物が載っている、という事実を知るにつけ、当時の建築技術水準の高さにあらためて驚かされる。

 ハドリアヌスの神殿から細い路地を抜けていくと、パンテオン前のロトンダ広場に出てくる。
 道に迷った昨日と違い、今日はもうバッチリ。

 昼も夜も大勢の人で賑わっている広場も、早朝には他に誰もいない。
 そんな中で観るこの建物は、いかにもローマという威厳に満ちた存在感だ。もともとの地上は現在よりも4、5メートル下だったというから、往時はさらに威容を誇っていたことだろう。


パンテオンの横側。今の地面より5mほど下が2000年前の地面。

 ローマ時代の遺構のなかで、往時の原形をとどめている唯一の建造物(7世紀頃、教会として使われていたため保存状態が良好)といわれるこのパンテオンは、石造建築物では世界最大なのだとか。
 いわば東大寺南大門のローマ石造版だ。

 「パンテオン」とは、すべての神々のための神殿という意味らしい。
 というのも、ギリシア・ローマに数ある神殿は、みなそれぞれ祀っている神様が決まっている。
 八百万の神々信仰は、いろんな神様を祀るのだ。

 そんないろんな神様をすべて祀る、というのだから、このパンテオン建造に気合が入らないわけがない。

 当然ながらこの建物には、当時の建築技術の粋が集められている。
 当時のローマ人たちが持っていた建築技術のなかで僕が最もビックリしたのは、そのセメント工法。
 2000年の昔から、セメントを使ってたんですぜ!!

 その技術あってこそのこのパンテオンは、その後方部分の本堂(?)の天井がドーム状になっている。
 下から見るとわからないけど、遠くから観るとこんな感じ。

 これ、大阪ドームじゃないですからね。
 2世紀初頭に造られたドーム状の屋根。
 その43.3mという直径は後世作られたヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂を凌駕し、おまけにその内部は、直径43.3mの球がスッポリ納まるように設計されているという。

 おお、内部観てぇーッ!!

 …でも、オープンは9時から。

 そんな立派な建物をいったい誰が造ったのかというと、当初はアウグストゥスの右腕中の右腕アグリッパだった。
 しかしその後50年建って火災に遭ってしまっていたものを、さらにその30年後にハドリアヌスが再建、今の姿になったそうな。

 なので当初の姿とはまったく違う形になっているものの、ちゃんと建物の正面には

 アグリッパが建造した、という碑文が書かれてある。
 当時の社会では、個人個人の業績を後世に遺すというのはとても大事なことだったのだ。
 だから、ヘタをうった皇帝がその死後に処される「記録抹殺刑」なんて、きっと死んでも死にきれないヒドイ罰なのだろう。
 この碑文は、そういう社会のルールを踏まえたうえでの、ハドリアヌスの配慮なのである(ちなみに、別の場所にちゃんとハドリアヌスが再建した、とささやかに刻まれているらしい)

 ハドリアヌス帝が、ローマ帝国全盛期の五賢帝時代の中核をなす一人であることはすでに触れた。
 面白いことに、ローマ皇帝=ヒゲ面、というスタイルは彼から始まる。
 それ以前の皇帝や実力者たちは、いわば質実剛健であれというローマ風の習慣に則って、男子たるもの、ギリシア風俗に傾倒するなんて!!ってことでヒゲを生やしていなかった。
 が、ハドリアヌスは根っからのギリシア文明大好き人間。
 当然のように、そのスタイルもギリシア風を愛した。

 それがゆえのヒゲ面。
 つまり彼は、それまでの慣習を打ち破ったわけである。
 が、以後はそれが慣習になってしまうのだった。

 このハドリアヌス帝はトライアヌス帝の跡を継いだ。
 知らないとついつい誤解してしまうところなんだけど、ローマ帝国の皇帝というのはけっして世襲制ではない。
 その時の実力者が周りから認められてその座に就くようになっているのだ(周りに愛想をつかされるほどヘタをうつと暗殺されたりもする)。

 もちろん、幼い頃から帝王学を身につけているという利点もあることから、子が親の後を継ぐというケースもあるものの、ローマ帝国の黄金時代である五賢帝は皆、子がなかったのかあえて作らなかったのかはわからないけど、これぞと見込んだ者を養子に迎えて帝王学を身につけさせ、跡を継がせていた。
 日本の幕府のような無理矢理の世襲ではない。

 でもそこには限りなくアヤシイ気配が漂っているケースもある。
 ハドリアヌスはたしかに、トライアヌスの跡を継ぐに足る実力者であることは当時から紛れもなかったものの、その跡の継ぎ方は、トライアヌスの今際のキワに、ただ一人そばにいたハドリアヌスが、「後継指名を受けた」という自己申告なのだという。

 うーん、アヤシイ……。

 しかしその怪しさも、それ以後の彼の業績の前には小さなモンダイでしかなかった。
 彼は数々の建築物建造でも名を遺しているけれど、皇帝の仕事とはここまで凄まじいのか、と思わずにはいられないほどに「仕事」をしている。
 なんといっても最たるものが「旅」。
 彼は「旅する皇帝」とまで言われているのである。

 もちろん観光旅行ではない。
 地中海世界に広がる大版図・ローマ帝国を隅から隅まで旅し、防衛上の問題があればテコ入れをし、民政上の問題があれば大鉈をふるい、社会資本整備の必要があればとことんインフラ整備をし続けた。
 その行程たるや、見ただけで気が遠くなる。


塩野七生『ローマ人の物語』スペシャルガイドブックより

 飛行機も鉄道もない時代ですよ……。
 上記の地図が掲載されている本が言うには、

 「属州民が代表をローマに送って自分たちの要望を訴えたのではなく、皇帝のほうが属州をまわって属州民の声に耳を傾けた」

 のだそうだ。
 皇帝といえば、贅の限りを尽くして酒池肉林のやりたい放題!!などというのはまったく大きな誤解なのである。

 その在位21年の間、彼がローマに滞在していた年数は合計で7年に過ぎないそうな。
 国会では寝てばかりで、訪れる場所といえば選挙前の地元だけという、どこぞの国の国会議員とは大違いではないか。

 古今東西、どんな国でもそうだけど、全盛時における施政者の優秀さにはほとほと感心させられる。
 ローマ帝国の賢帝たちの「モノの考え方」が今の日本にあれば……と思わずにはいられない。

 さてさて。
 ちゃんと歩けばそれぞれの距離はとても近いことがわかったので、もう少し足を伸ばすことにした。
 ここから西にちょっと行くとほどなく到着するのが、ナヴォーナ広場だ。

 昼も夜も大勢の人で賑わうこの広場もまた、早朝はジョガーが心地良さそうに走っているのみ。

 というか、ローマにもやっぱりジョギングする人が普通にいた!
 実はこの旅行に際し、ジョギングシューズを持ってくるかどうか、最後までうちの奥さんとともに迷っていた。
 結局持ってこなかったんだけど、いやはや、この清々しい朝に走ってみるってのは気持ち良さそうだ。
 持ってくればよかった……。

 ちなみにこのナヴォーナ広場もまた、かつては3万人もの観客を収容したという競技場の跡地だ。
 現在建物が建っているあたりが観客席だったらしい。


同じく3世紀のローマの復元模型(前掲書より)。
白○が現ナヴォーナ広場、青○がパンテオン、赤○がハドリアヌスの神殿。

 コロッセオ建造に着手したヴェスパシアヌス帝の息子であり、コロッセオを完成させたティトス帝の弟でもあるドミティアヌスが造ったそうな。

 このドミティアヌス帝は、けっして悪い人ではなかったんだけど、張り切りすぎたために元老院の反感をかい、疑惑の暗殺後に例の記録抹殺刑に処されてしまった。

 でもこうして広場はちゃんと残っているのだった。
 そして広場が残ったことにより、日本人にも深い影響を与えることになったのだ。

 「ナボナはお菓子のホームラン王です!」

 その昔、王選手がそう言っていたCMをご記憶だろうか。
 この「ナボナ」という名前。
 そのメーカーである亀屋万年堂社長がローマ滞在中、このナヴォーナ広場で子供たちがお菓子屋さんに群がっている様子を見て、この名に決めたのだそうな。

 思わず「へぇ〜〜」

 さかのぼって考えれば、記録抹殺刑に処されたドミティアヌスがいなかったら、お菓子のホームラン王は生まれなかったのである。

 ナヴォーナ広場をあとにし、すぐ北を流れているテヴェレ川を目指した。
 すると、いきなり通行人が何か声を掛けてきた。

 「すみません、○○○橋ってどこですかね?」

 あのぉ、ワタシも観光客なんですけど……。

 そういうと、彼もしまったと思ったのか、一言残してまた別の人に尋ねていた。

 それにしても、フツーこの地でアジア人に道を尋ねるか??

 ややビックリしつつ北上すると、すぐにテヴェレ川。
 そして………

 おお、ローマ♪

 …って感じの風景が目の前に。
 ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂だ。
 位置的に、朝陽を浴びたらさぞかし美しかろうと予想して来たところ、たしかにこれは木戸銭を払う価値があった。

 我々は今日、あの大聖堂に行く。

 おっと、時刻は7時10分前。
 7時には戻ると言い残して来たので、そろそろ帰んなきゃ。
 格好はあまりふさわしくないものの、なんだか心地良さそうだから、ここからジョギングしてみようっと♪