9・百万石の城
金沢に居ながらいまだ本格的に観光をしていない我々も、朝握り朝酒を堪能していいコンコロもちになった今、ついに重い腰を上げてサザエさんのオープニング的観光に乗り出す。 目指すは金沢城公園。 観光ガイド的に金沢城公園の入り口的存在になるのは、やはり兼六園と接している石川門ということになるのだろう。 でもお城の正面玄関といえば大手門。 御用聞きじゃないんだから、勝手口から入るってどうよ。 ……とこじつけつつ、実際のところは大手門のほうが近江町市場から近いという理由だけだったりする。 地図で見るとこんな位置関係。
地図上にふられた番号でいうと、BからCに行って寿司をいただき、大手堀付近を目指している。 地図だけ見ていたときは、百万石通りと呼ばれる大通りから内側に入ってしまうと、我々はたちまち道に迷うのではなかろうか…と思っていた。
しかし百聞は一見にしかず。 雪がハラハラと降り続く中テケテケ歩くと、ほどなく大手堀にたどり着いた。
高槻の実家の近所でこういう景色となれば、それは古墳の周りのお堀ってところ。 この堀にそって写真奥側に歩いていくと、金沢城の大手門とされる尾坂門に到着。 早すぎて入れなかったりして……という危惧は、通勤の方がフツーに生活道路として城内を利用している様子を見て解決。 お城の中が生活道路になっているなんて、京都御苑の中が付近住民の生活道路になっているかのごとき雰囲気だ。 さあ、入城しよう!!
観光名所の勝手口・石川門のような、いかにもお城でござい的櫓も門も何もないけれど(江戸の昔からここには櫓は無かったらしい)、見よこの石垣に使用されている巨大な岩!! 勝手口にはけっして使われることのない、これぞ正面玄関とでもいうべき巨石である。 おそらくこのあたりの施工にも、かつての高槻城主高山右近が活躍したに違いない。 ここを通り抜けると、一面うっすらと雪化粧を施しただだっ広い空間が目の前に開けた。 まだ早い時刻だし、そもそもこちら側には観光客はあまり来ないし、通勤の方々の姿もまばらだ。 ひょっとして、チャンス?? というわけで……
金沢城で大の字♪ 後刻知ったことながら、背後に見える菱櫓は中に入ることができ、古の櫓の役目そのままに、最上階から四方八方を見渡すことができる。 つまりこの時こちら方面を眺めていた方がいらっしゃったとしたら、誰もいない雪原で大の字になっているところをすべて見られていたことになる……。 そんなこととはつゆ知らず、随所に配されている城内地図を頼りに歩くと、河北門が現れる。
近年復元なったこの河北門は三の丸に入るための門で、金沢城的には事実上の正面玄関になるらしい。
戦国時代を生き抜いた人々の築城思想というのはまず最初に「防御」が来るようで、この金沢城も、門をくぐっても素直にそのまままっすぐ中に…ということにはならない。 だから上の写真の門をくぐっても、さらにその先で直角カーブをしてこういう門になる。 中世ヨーロッパをモデルにしたようなファンタジー映画に出てくる「お城」の造りとは、一味もふた味も違うのである。 そんな紆余曲折(?)を経てようやくお城の中心部に入ると、そこは……
五十間長屋と菱櫓&橋爪櫓!! 素直に石川門から来れば、門を通り抜けた後に真っ先に目にするシーンである。 お城っぽい建物といえば石川門くらいしかなかった昔とは違い、この五十間長屋関連の構造物が復元されて久しい現在、金沢城公園といえば石川門かここか、というくらの存在になっているようだ。 でまた、おあつらえ向きに雪原が。 どうせ大の字になるんだったらここでしょう!! ……という状況ではあるんだけど、残念ながらここにはすでに、アジアンの団体旅行ご一行様が実ににぎやかに写真をパチクリ撮りまくっておられたため、さすがのオタマサも大の字になる勇気はなかったのだった。 この五十間長屋ゾーンは有料ながらも中に入れるそうなので、テケテケ歩いて堀を大きく迂回し、入り口まで回ってみた。 石川門側からは裏側になる広場は、なにやら工事の真っ最中だった。
最近の沖縄ではこれがシーサーをデザインしたものになっているところもある。 ここはかつての二の丸だった場所で、今はだだっ広い広場でしかない。
10メートル四方ごとに区画を区切って、そこに生コンを流し込み、その上から川砂利のようなものを往年の水戸泉の塩のようにばら撒いていた。 なるほど、砂利模様のコンクリート舗装って、こうやって造られているのかぁ……。 金沢城築城当時にはありえなかった技術。 さて、そんな工事を傍らに見つつ、兼六園とのセット料金500円を払って館内へ。 完全防寒のスノーシューズを脱ぐと、たとえスリッパを履いていてさえ足先はチベタイ。
名画「蒲田行進曲」のヤスですら、階段落ちに二の足を踏むのは間違いない。 そんな急階段を上ると、この二の丸では最も高い物見櫓本来の役目の一つである、見晴らしの良さを楽しめる。
観光用に設置されている階段を上がって覗くと……
あ、絶景かな、
絶景かなぁ〜〜〜ッ!! …と突如石川五右衛門かしてしまうほどの眺め。 ちなみにここにいます。
五十間長屋を挟んで向かい合う橋爪門続櫓は、高さ的には菱櫓よりも低くなるとはいえ、三層の物見櫓だけあってやはり眺めは素晴らしく、これまた…
絶景かな、
あ、絶景かなぁ〜〜〜ッ!! ところで、五十間長屋の左右にある2つの櫓、橋爪門続櫓はフツーに壁と壁が直角に交わる四角形なのに対し、菱櫓はその名のとおり、フロアの断面が菱形になるように作られているのだ。 言われてみると、床の形は平行四辺形。 なんでまたそんな面倒なことを?? その説明には、「角度を広く取ることによって櫓からの視界を広くするため」なんて書かれてあった。 実は……… 施工ミスだったんじゃね??? ……んなわけないか。 さてさて、そんな菱櫓の展望フロア(?)にいる我々。 誰もいない心地よい空間で我々だけ? ってことは、ひょっとしてチャンスですか!? というわけで……
菱櫓大の字!! 昼近くになるともう少し混みあうのだろうか。 空いているっていいことだ。 菱櫓の急階段を下りると、ルートは五十間長屋へと続く。 長屋といっても下町で熊さん八つぁんが住んでいる長屋のことではなく、武器庫としての役割を担う建物の呼び名だそうだ。 これがまた実に見事に復元されている。
伝統工法の知識なんて皆無ながら、ただこれを見ただけでも、その技術の気の遠くなるほどの凄まじさは感じ取れる。 ご丁寧にも、伝統的な木造軸組みの工法を具体的に実際の木材を使用して解説してくれているブースがいくつかあった。
すみません、もうこんなの見たらワタシ、設計図を描く時点でギブアップです………。 全域このような伝統工法で復元されている櫓と長屋。 柱や梁は伝統工法だけど、床板は………
ステンレスのコーススレッド(木材用ネジ)だった!! いや、そりゃステンレスのほうが保ちがいいし、ネジのほうが接続もしっかりしますわね……。 素朴な疑問。 釘?? まぁ、スプリンクラーだって設置されているんだから、ステンレスのネジだって使ったっていいっしょ、ってな話ながら、意外なところで近代化を見た思いがして妙に面白かった。 さて、ここまでのルートを、五十間長屋の中にあった金沢城復元模型でおさらいしてみよう。 裏に回るために大きく迂回しているので、すでにけっこう歩き回っている。 で、次に我々が目指したのが、左上で赤い丸にくくられているところ。 往時の姿をそのままにとどめている、三十間長屋だ。 やはりここも武器庫としての長屋。
しかし今出来の五十間長屋に比べれば、江戸時代からの建物がそのまま残っているこちらのほうが、由緒正しいという意味では、石川門同様とても大事な建物なのである(国指定重要文化財)。 ところで。 後日大阪の実家に帰省していた際に、意外な事実を再発見してしまった。 うちの両親も、24年前の91年に金沢を観光していたのである。
おお、ほぼ同じアングル!! しかし、左手前の緑なす木々は、現在影も形も無くなっている……。 これは近年になって行われるようになった、期間限定夜間ライトアップのための処置なのだろうか。 …というあたりのことを帰宅後調べてみたところ、なんとなんと、戦後まもなく開学した金沢大学のキャンパスは、95年までずっとこの金沢城址にあったというではないか。 かつて首里城跡地がキャンパスだった琉球大学が、西原町に移転してから首里城が大々的に復元されたように、金沢城も金沢大学が移設してから大々的な復元工事がはじまったらしいのである。 ってことは、91年当時の三十間長屋って、金沢大学キャンパスのおまけのようなものだったってことか。 いずれにしても、建物自体は江戸時代からの姿をそのまま留めてはいても、周りの風景のほうが勝手にめまぐるしく変わっているのである。 長屋の周りの木々は24年前に比べてすっかり失われてしまっていたけれど、オタマサは三十間長屋の外側(表側?)の片隅で新たに芽吹く生命を発見していた。
蕗の薹♪ うっすら雪化粧とはいえ、春なんですねぇ……。 橋爪門から表側に出たかったのだけど、大々的に工事中だったので、本丸方面へ大きく迂回してから再び五十間長屋の正面へ。 ここから外に出ると、すぐに石川門だ。 ちなみに城内には随所に御手洗いがあったので、朝からビールを飲んでいた僕にとっては天王寺動物園なみのありがたさ。 ちょっと休憩してから、ようやく石川門へ。
この石川門も、ご多分に漏れず間に枡形ゾーンを配した造りなんだけど、その石垣になにやらマニアックな特徴が。
左と右で石垣の様子が異なるのがわかりますか? これ、わざとそうなるように作ってあるのだそうな。 そして門を潜り抜けて表に出ると……
そう、これが金沢城公園の代名詞、石川門。 冬枯れの季節だと絵的にはイマイチながら、江戸時代からそのままの姿を今にとどめているという姿を拝んでおくことにしよう。 往時には門から続く土橋の左右にあった大きなお堀は埋め立てられ、今では立派な県道になっている(お堀通りと呼ばれている)。 橋の上から脳内変換しつつ往時の姿を思い浮かべていると、橋の対岸の兼六園から、続々とやってくる観光客のみなさん。 さすがに10時過ぎともなると、団体様ご一行をはじめとする観光客がひきもきらなくなるようだ。 我々が入城した頃にはうっすらと施されていた雪化粧も、早くもこの時間には消え失せていた。 さてさて、この橋を渡れば、お向かいはもう兼六園入り口。 でも兼六園に入ってしまう前に、我々にはひとつ使命があった。 その使命とは…… |