29・2月4日

風と共に去りぬ…

 バルーンサファリは、ムパタクラブから車で20分ほどのところにある、ガバナーズバルーンサファリというところで催されている。
 そのため、そこ出発に間に合わせるためには、我々はムパタクラブを朝5時に出発しなければならない。

 ご、5時!?

 急速に僕は「だいじょうぶだぁ!」のコントに出ていた石野陽子化してしまった。
 5時出発のためには4時45分にロビーに集合せねばならず、そのためには遅くとも4時過ぎには起きなければならないだろう。
 だというのに前夜有頂天のあまり飲みすぎてしまい、快適とは程遠い目覚めに。
 それでもキチンと4時過ぎに起きるあたり、すっかり齢をとってしまったということなのだろうか。

 いつもより早い朝は、いつにもましてまだ夜だった。
 この日このムパタクラブからバルーンサファリに参加するゲストは、我々のほかにはもう1組Iさんご夫妻のみ、計4名で赴くことになっていた。
 送迎は先方のロッジが行う。
 やがて時刻となり、すでに到着していた送迎車に乗り込む。
 ムパタのトヨタ・ランドクルーザーとは違い、まるで軍用車両のような左ハンドルの重厚な車だった。

 きらめく星空の下、軍用車両は発進した。
 いつもよりも早い時刻にもかかわらず、道沿いのブッシュではシマウマやインパラたちがすでに朝食タイムに入っていた。
 そして……。
 道のすぐ脇にキリンさんがいた。
 周囲のブッシュよりもひときわ高いその体は、星空をバックにしてたたずんでいた。青く淡い星明りがキリンを照らし出している。

 美しい………。

 これまでもたびたび目にしてきたキリンさん、このときの美しさは他の追随を許さない。僕たちはこの姿を忘れることはないだろう。
 残念ながら、この絵画のようなシーンは瞬時に写真に納めることはできなかった。いつの日か、この記憶を絵にして残してみたい。もちろんそれは、昼寝のついでに描いたようなものではなく……。

 星空のキリンの美しさに見とれているときに、ふと気づいた。
 北斗七星が地面スレスレだ!!
 オリオン座が天頂付近にあるのを見て驚いたけど、つまりそうなると北極星や北斗七星はこういう位置になるってことなのだ。
 北斗七星のひしゃくの部分を5倍して探す北極星は、この丘から見るかぎり地面の下になっていた。
 アラスカで見た夜空では、北斗七星や北極星がほぼ真上にあったっけ。緯度が90度近く変わると、気温だけではなく、夜空も劇的に変化する。

 それにしても、南東の方向にずっと輝いているあの星座。どうみても南十字星なんだけどなぁ……。

 いつも通っている道を逸れ、軍用車両はガバナーズへ向かう。
 やがて、林の中に隠れ潜むような場所にある、ガバナーズバルーンサファリのロッジに到着した。

 おお、これがキャンプ式のロッジなのだろうか。
 我々と同じく、周辺のロッジからやってきた人たちや、このロッジに宿泊しているバルーン参加者が集合してきた。国際色豊かである。
 これまでは日本語をある程度解するケニアの人の英語だったから僕たちもついていけていたけれど、こういった英国貴族風娯楽を有するロッジというのは、そのイメージどおり白人さんの管轄下だ。説明をするのもやはり白人さん、それも、絵に描いたような「サファリの男」って感じのオッサンだった。
 このオッサンの英語がまたナチュラルなので早い。
 わかんねえよ。
 車から降りる際に、「英語は話せますか?」と訊いてきたので、「A little.」と正直に応えておいた。しかし、僕の場合は正しくはA littleじゃなくて本当にLittleなのだということを忘れていた。
 とにかく、トイレはそこだ、あそこの先ににさっきバッファローがいたから注意して、こっちに飲み物がある、その他いろいろ、てきぱきと早口でまくし立てつつ出発時刻を待つようにということだったように聞こえた。

 それにしても。
 いつもサファリに出かける際は、バルーンが膨れ上がって淡くボンヤリとオレンジの輝きを発しているのを遠目に見ていたはずなんだけど、まだバルーンは力なく地面にペッタンコと横たわったままだ。これから膨らますのだろうか?

 とりあえず物は試しなので、テント式のトイレを体験してみることにした。
 トイレにしては大きなこのテント、はてさて内部はどうなっておるのか。
 サッと天幕を開けると……

 いきなり便器が。
 だだっ広いテントの中には、この便器一つ。
 これって、男性だったらともかく、女性の場合はちゃんと入り口にもうワンクッションあるのだろうか?開けていきなりこれじゃなぁ…。
 しかし女性用もこうなのだった。というか、この写真はうちの奥さんが撮った女性用のほう。
 やはりサバンナではワイルドで行けということなのだろう。だいたい、地平線をバックにして大地で用を足してしまう女性にとっては、何ほどのこともないようだった。

 さあて、いよいよ時刻は迫ってきた。
 集まっている参加者たちの気分はいやでも盛り上がる。
 やがて再び例の「いかにもサファリオッサン」がやってきて、参加者たちに説明し始めた。

 例によって早口なので、僕の語学力では何がなんだかよくわからない。
 南のほうにある高い木を指差したかと思うと、西のほうを指差して首を振っている。
 人が英語がわからないのをいいことに、都合の悪いことを早口でまくし立てているのではあるまいな……と一瞬思ったのだが、よくよく考えてみると周りの人々は、Iさんご夫妻も含めてみな説明を理解しているようだった。

 そして、ロッジのスタッフらしきケニア青年が、不思議な黒い球を抱えて持ってきた。
 風船??
 それを手にしたサファリオッサンは、やおら上空に飛ばした。

 風船は風に乗ってピューーーーーーッと西の空に飛んでいった。

 はてさて、今のはなんのアトラクション??

 はてなマークを頭の上に23個ほど飛ばしていた我々夫婦だけが、この場で唯一シアワセ状態だったのだろう。

 風船を見送ったサファリオッサンは、参加者たちを振り返り語った。
 「I’m sorry.」
 先ほどまでの威勢のよさはどこへやら、急速に腰が低くなったサファリオッサンは、残念がる参加者たちに向けてたんたんとお詫びの言葉を述べていた。

 そうか、そういうことだったのか!
 Iさんがサファリオッサンのさきほどの説明を教えてくれた。
 この黒い風船が、40秒ほどかけてあの木の上に行けば開催OK。しかし西のほうに素早く行ってしまうと開催はできない、そういうことを言っていたのだ。
 そして風船は西の空へピューッと飛んでいったわけだ。

 ん?ん?
 てことはなんですか、つまり今日はなしってこと??

 なんてことだ!!
 我々が滞在中、バルーンが飛ばなかった日なんて一日としてなかったというのに、狙いすましたかのようなこの中止!!
 これまでずっと、ラッキー続きでもはや向かうところ敵無しと思っていたら、最後にこんなオチが待っていたなんて!!

 かわいそうなのはIさんご夫妻だった。
 迷いに迷って参加を決めた我々とは違い、彼らはこのバルーンこそが目的で旅行をしに来たようなものだったという。
 台風で一本も潜れずお帰りになるゲストに向けるような慰めの言葉をかけつつ、明日があるじゃないですか、と励ました。

 「明日帰るんです……」

 う…………。
 僕たちといっしょかぁ。
 一方の僕たちは、実はそこまでガッカリはしていなかった。
 バルーンサファリの開催が中止された場合は、当然ながら全額返ってくる…というか、まだ支払っていないから覚悟の4万円×2を支払う必要がなくなったのだ。
 なんとなく臨時収入って感じ?

 そんなことよりも我々には問題があった。
 おい、サファリオッサン、つまり僕たちはこれから帰らなきゃならないってことかい?

 「I’m sorry.」

 さっきまでは我々が日本人であることなど気にもかけていなかったくせに、急に斜め45度のきちんとしたお辞儀をするサファリオッサン。どこぞの大手企業のえらいさんたちと一緒で、謝るときだけはさすがに腰が低いのか。
 アイムソーリーはいいんだけどさ、バルーンサファリのあとについているはずだった陸上のサファリもなしで帰らなきゃならないの?

 「ノーノー、陸上のサファリはこちらが用意した車で行ってもらいます」

 お、そうかそうか、それはよかった。
 ところでサファリオッサン、あそこで輝いているあの星はサザンクロスですかね?

 「イエス、ペラペラペラペラペラペラペラペラ……………」

 すまんサファリオッサン、せっかく説明してくれているのに申し訳ないけど、ペラペラ部分はさっぱりわからない。とにかくあれはサザンクロスなんだろう?

 「イエス」

 なんだよヘンリー、やっぱり南十字星だったんじゃん!!
 指差す場所が違って見えたのかな。

 ああ、あれが南十字星だとわかっていたら、夕べのうちに願いをかけて今朝の無風を呼べたかもしれないのに……。
 ま、いっか。

 こうして我々のバルーンサファリは、黒い風船が風と共に去って終わった。
 始まってなかったけど……。
 ああ、今頃姫は試合しているのかなぁ…。気球から送るはずだった声援の念波は地上から届くだろうか。

 「届かなかった」

 後日、バルーンに乗れなかった話に笑いながら、彼女はそう答えたのだった。
 きっとそれは受信装置の問題だから、たとえバルーンに乗っていたとしても届かなかったろうけれど……。