8・高知城

 …高知城!

 高知城にも尾長鶏がいた。

 ひろめ市場の眼と鼻の先にあるのだから、「行かねばならない場所が…」などと鼻息荒く言う必要などまったくない距離感。

 そのわずかな距離の沿道には、さすがご城下、古道具や刀剣、各種刃物を扱う店が軒を並べている。

 このご時世でも包丁を剥き身で販売できるのは、築地市場かここくらいのものではなかろうか。

 そんな刃物店の道路を挟んだお向かいには、巨木が木陰を作っている広場がある。
 砂利敷きの広場にはテーブルがいくつか設けられていて、それぞれにヒトが集まっている様子。

 はて、なんだろう……

 おお…青空将棋会館!!

 おじいちゃんばかりかと思ったらそういうわけでもなく、おじぃと対局している手前の紺色ドカジャン姿は、かなり若いにぃにぃだ。

 平日の昼下がり、お城の麓でのどかに将棋。
 いいなぁ、こういう世界って。

 これ、雨降りの時はどうなってるんだろう?

 追手筋方面から高知城に向かう場合、必ず通るのが追手門。

 追手門は本来古称で、多くは大手門と表記されるようになっているのだけれど、高知城をはじめとする一部のお城だけ追手門表記なのだとか。

 ま、意味するところはお城の正門。

 だからこちら側から眺める天守閣が、ファサードということになる……のだろうか。

 天守閣同様この追手門も江戸時代から残る建造物だそうで、天守閣と追手門が揃って現存しているのは、日本全国でたったの3城だけという。

 しかも、天守閣をはじめとする城郭建造物のほとんどは、暴れん坊将軍こと徳川吉宗の時代に高知城下を襲った大火で一度焼失してしまい、その後再建されたモノであるのに対し、この追手門はその大火の災厄を免れたのだとか。

 何か持っているかもしれない……。

 もちろん、国の重要文化財。

 ガイドブック的には、この追手門の手前からカメラを向ければ、天守閣と一緒に写せる、というビューポイントでもある。
 日本でたった3か所だけという、天守閣と追手門がセットで残っているお城の中で、両者のツーショットを撮れるのは高知城だけなのだそうだ。

 眺め的にもレア度でも、類まれなるこの場所にいるシアワセ。

 別名鷹城とも呼ばれるお城は、青空によく映える。

 しかし。

 ともに眺めているはずのオタマサの視線が、まったく違う方向に向いているように思えるのは気のせい?

 気のせいではなかった。
 水を湛えた堀ではあっても鯉の姿は見えなかったから安心していたのに、今度はいったい何が……

 これが。

 おお、カワセミ!!

 高知城下では最近ハヤブサが増えて、よくハトをゲットしている…なんて話は聞いてはいた。
 しかしまさかお城の堀でカワセミに出会おうとは。

 「御宿かわせみ」ならぬお城カワセミ。

 彼はどうやらこの辺をナワバリにして、堀にいる小魚か何かを狙っているらしく、しばらくの間ずーっと同じ枝に止まっていた。

 追手門と天守閣を前にして、濠端ばかり見ている我々は、行き交う人々にとってはさぞかし変に映っていたことだろう…。

 お城の造りというのは、基本的に攻められにくくするようにする、というところに全力を傾注するため、後世の観光客が観光しやすいようにはまったくなっていない。

 この高知城ももちろん、建築思想は戦国のお城だ。

 となるとお城へ登るルートがたやすいはずはなく、ましてや大阪城のようにエレベーターがあるはずもない。

 そのかわり、こういうものが用意されていた。

 高知城登城お助け杖。

 そうか、杖が必要になるほどの勾配ルートなのか。
 酒飲んでから来たのは失敗か?

 すっかりほろ酔い気分のワタシ、どちらかというと杖よりもAEDが必要になるかも……。 

 同じく酒、それもビールを飲んだ状態だと困ったことになりがちな重要なモンダイは、さすが天王寺動物園級のお手洗い密度を誇る高知市街、場内随所にもお手洗いが設けてあるおかげで助かった(ただしもちろん天守閣内にはありません)。

 巨大な梁がものすごい追手門をくぐると、そこは広場になっている。

 その広場の奥、天守側に石像があった。

 同じポーズをしているつもりでも、なぜだか仮面ライダーの変身ポーズになってしまうオタマサとは違い、さすが歴史に名を残す「偉人」は形が決まっている。。

 この像は、乾退助こと自由民権運動の旗頭・板垣退助。
 「板垣死すとも自由は死せず…」と名言を残したものの実際はその時に死んだわけではないから、単なる大げさオヤジだった感もあるけれど、かつての日本では旧百円札でおなじみの顔でもあった。

 そういえば天神大橋から続く大橋通り沿いには、後藤象二郎の誕生地のほか、ちょっと小道に入ればこの方の誕生地跡もあったようだ。

 坂本龍馬と同時代に同じ土佐で生きた後藤・乾両名は、上士(あとから土佐に乗り込んできた「功名が辻」一派山内侍)・郷士(もともと土佐にいたけど関ヶ原で西軍についてしまった「夏草の賦」一派長宗我部侍)という藩士の上下の区別が厳しかった土佐藩においては、郷士だった坂本龍馬とは逆にエリート階級に属する方々で、子供の頃からわりと自由だったと思われる。

 そんな人が自由を求めるのだから、いかに当時が不自由だったかがよくわかる。

 もっとも、「自由死すともアベは死せず!」と言い出しかねない政治家ばかりの今の世の中は、相当不自由路線に舵をきっているような気が……。

 ちなみにこの像の「板垣退助先生像」という揮毫は、これまた吉田茂首相(当時)の手によるものだそうな。

 吉田茂、書きたがり説。

 ……と思ったら、なんと吉田茂の実父竹内綱は、自由民権運動当時の板垣退助の腹心だったそうで、むしろ坂本龍馬よりも板垣退助のほうがよほど縁の深いヒトだったようだ。

 さらにちなみに、この板垣退助像は桂浜に聳える坂本龍馬像と同じ作者の手によるものだという。
 なんだかそれって、タイガースの六甲おろしとジャイアンツの闘魂込めてが同じ作曲者っていう話と同じように思えるのは気のせい?

 板垣退助像がある広場から、すぐさま苦難の階段が始まる。

 この階段、一段一段がやけに幅広くて歩幅になかなか噛み合わず、リズミカルに登っていけない。
 それもそのはず、これもまた「敵」に備えてのモノで、攻め上がる際にまっすぐ駆け上がりにくくなるよう工夫されているそうな。

 逆に駆け下るには便利だといい、そういえばたしかに帰り道は不便を感じなかった記憶がある。

 階段の脇にずっと続く石垣には、ところどころこういう設備がある。

 石樋と呼ばれているもので、雨の多い土佐らしく、流れ出す雨水が石垣に害を及ぼさないよう、排水路を何ヵ所も設けてあったそうで、この石垣から突き出ているところが排水口なのだとか。

 マニアックながら、これまた他所ではなかなか観ることができないモノのひとつだったりする。

 そうこうするうちにたどりつくのが、こちらの像。

 馬とともにたたずむ、なんだか垢抜けない女性……と思ったら、畏れ多くも彼女は日本一の内助の功で有名な、初代藩主山内一豊の妻、仲間由紀恵…じゃなかった、千代さんだった。

 司馬遼太郎の「功名が辻」を原作にした大河ドラマでも、たしか仲間由紀恵の役名は原作どおり千代だった。
 しかし実はこの女性、落飾後の見性院という法号は誰も異論を唱えるところがないものながら、それまでの名前は「千代」だったのか「まつ」だったのか、実は歴史考証学的に不明なのだとか。

 名前が不明なくらいだから、その出自も諸説ありすぎてさっぱりわからないという。
 早い話が、どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知っている月光仮面のような方なのである。

 ねねでずっと通ってきたのに「おね」になったり、お江さんなのか江与さんなのかわからなかったりと、天下人の奥様連でさえ、落髪前の正確な名前がわからないのだから、土佐一国の藩主の嫁の名も素性もわからないのも無理はないのかも。

 女性にとって、そういう時代だったということなのだろう。

 そんな千代orまつさんのところから仰ぎ見る天守閣。

 …まだ遠いんですけど。

 ヘェ…ホォ……いいつつ階段を登ると、やがて三の丸広場に出てくる。
 桜の季節にはとっても素敵な広場になることだろう。しかし今はただ風が吹くのみ。
 でも我々にはとってもありがたい公衆トイレが、広場の奥にある。

 スッキリしてから再び階段を登る。

 やがて二の丸にたどり着くと、そこにあるのは…

 おお、アイスクリン!

 ここ高知ではアイスクリンもまた定番スイーツである、という話は知っていたけど、まさか閑散期の平日にまで店を出しているとは。

 週末しか出店しない沖縄のアイスクリンとは、営業方針が違うらしい。

 もっとも、アイスクリンの店といえば若い(若すぎる?)おねーちゃんが定番の沖縄とは違い、土佐のアイスクリン屋さんは……

 ……ちょっと年配気味。

 やはり沖縄とは、営業方針が違うらしい……。

 往時は藩主が暮らしていた二の丸御殿のあとに、アイスクリン。
 場所柄の景観を考慮するなら、今の世ならとうてい出店が許されそうにないド派手な看板なんだけれど、兼六園の中にあった売店同様、きっとアイスクリンには観光名所高知城とともに歩んできた歴史があるのだろう。

 店舗はここだけに限らないはずなのに、高知滞在中、結局一度も食べずに終わっちゃった、高知名物アイスクリンである。

 梁にスターウォーズと高知市がコラボしたデザインの手作り大漁旗が、なぜだか何枚も飾られている詰門をくぐり抜ける。

 これ、外側から見るとこんな建物。

 往時は「橋廊下」と呼ばれていた構造物で、二の丸と本丸を繋ぐ渡り廊下になっている。
 この2階部分を歩いていたらしい。
 先にこの外観を見ていたというのに、中を歩いている時にはまったく気づいていなかった。
 
 もっとも、この建物を見て内部にスターウォーズの絵が飾ってあるなんてことを予想するヒトも、まずいないことだろう……。

 この橋廊下こと詰門を抜けると……

 ついに天守閣が目の前に。 

 お城というとなによりも天守閣。
 お台場に立っていた実物大ガンダムとほぼ同じ高さだ。

 ただし高知城で注目すべきは、その前にある本丸御殿。

 全国に数ある復元されたお城は、天守閣こそ立派であっても、この本丸御殿まで復元されているところはないから、天守閣がポツンと建っているイメージであることが多い。
 しかし本来のお城はこういう構造になっているものなのだとか。

 そして高知城は、そんな本丸御殿が現存している唯一の城なのである。

 天守閣は有料で、本丸御殿が天守閣入場券売り場になっている。

 このあたりから周囲を見渡してもけっこう眺めはいいので、疲労困憊された方は無理に登る必要もないかも。

 でもそもそも目的が「高いところに行く」なオタマサが、ここで引き返すはずはない。

 この青空だもの、オタマサならずとも登りたくなりますわな。

 天守閣内部は土禁なので、券売機で入場券を購入したあと、鍵付きの下駄箱に靴を入れ、券をもぎってもらって本丸御殿のなかへ。

 格調も敷居も高い老舗旅館のような趣のある各広間を見つつ、廊下を歩く。

 やがて天守閣に。

 外から見ると3層か4層に見える天守閣は、実際は6階建てで、もちろんエレベーターもエスカレーターも無いから、狭く急な階段をえっちらおっちら登りながら各階を見て回ることになる。

 各階にはいろんな展示物があって(大河ドラマで仲間由紀恵が着ていたという着物もあった……のは本丸御殿内だったか?)、往時の高知城の全体模型も。

 どうもこういうジオラマ模型が無性に大好きなワタシ…。

 天守閣まで歩いてきた道のりや、往時の三の丸や二の丸の様子もよくわかる。

 その他いろいろある展示物の中で、ひときわ目を引いたのがこの写真だった。

 説明文にもあるように、空襲に大地震にと相次いだ人災天災、さらには予算不足による放置プレイであったがためのシロアリ被害で、戦後の高知城はボロボロになっていたのだ。

 何年もかかる苦難の果てに見事修復なったからこそ現在の姿があるわけで、当時のことをご記憶の方々からすれば、夜静かに美しくライトアップされている現在の天守の姿は、さぞかし感慨深いことことだろう。

 震災後苦難の日々が続く熊本城にも、必ずそんな日が来ます。
 がんばろう、熊本城。

 そんな展示物や城の造りをフムフムと見つつ、階段を登っているうちに、ようやく天守最上階に到着!

 こりゃたしかに眺め抜群だわ!

 オタマサがなにげに寄り添っているこの欄干、これまた高知城の特徴のひとつだそうで、擬宝珠ひとつすら家康にいちいち許可を得たものなのだという。

 ただしこの天守最上階をグルリと歩ける屋外廊下、欄干自体がなんとなく心もとないために、高いところがヒト3倍くらい苦手なワタシはオマタヒュンとなる。

 それでも負げずに欄干越しに東側を見下ろすと、先ほど通ってきた追手門が見えた。

 西側を見れば、追手門同様国の重要文化財に指定されている黒鉄門が、そしてそのむこうの市街地の先には、この日の午前中歩いた坂本龍馬誕生地や日根野道場がある(矢印のあたり)。

 市街地には高いビルが立ち並んでいるため、そのあたりの地上からお城はまったく見えなかったけれど、江戸の昔ならいつも、丘の上にこの天守閣が聳え立っているのが見えたことだろう。

 お城が見えるといえば。

 我々が泊まっているセブンデイズホテルプラスは高知城の東にあって、部屋は東向きだからそもそも城など見えるはずもない。
 途中のビル群を思えばたとえ西側の部屋でも城は見えなかっただろう。

 でもひょっとして?

 と思い、屋外の非常階段に通じるドアを開けて踊り場に出てみると……

 見えた♪

 ズームイン!

 ビルの谷間にお城がピョコン。

 これなら、オタマサが天守最上階にいるときにここから撮ることもできたなぁ……しないけど。

 だからどうしたと言われればそれまでながら、なんだかうれしい発見なのだった。

 我々がこの天守最上階に登ってきたときには、先にガイドつきのカップルがいらっしゃったのだけど、ガイドさんの説明が終わると、彼らはそそくさと下に下りていった。

 チャンス到来!!

 オタマサのライフワーク、名所で大の字@高知城。

 ちなみに傍らには、こういう注意書きが。

 大の字は……「昼寝」じゃないっすよね?

 妙な達成感を得て、来た道を戻る。

 最下層に下りると、別ルートで東多聞というこれまた往時から残る天守構造物にも入ることができ、そこにもまた展示物があった。

 なかでも興味深かったのがこちら。

 江戸の昔の捕鯨の様子を再現したジオラマ模型。

 時代はたとえ違おうとも、番場蛮の父ちゃんもほぼほぼこのようにして鯨と戦い、死んでいったのだろう(フィクションです)。 

 捕獲の様子もさることながら、さらに興味深いのは解体シーンだ。

 ご丁寧にも解体後の肉のブロックまで作りこまれているくらいだから、解体シーンもけっこうリアルで……

 なるほど……こうやって皮を剥いでいたのか。 

 いやほんと、すみません、好きなんですこういう模型。
 もっと他にも、長宗我部時代の土佐のことや埋蔵文化財的な展示物もあるんですよ、実際は。

 往時は武器庫だったという東多聞で、まさか捕鯨の模型が見られるとは……。 

 天守閣を出たあとは、黒鉄門をくぐって帰路につく。

 壁の向こうからヒョイ…と馬上姿の松平健が出て来そうな道を下っていくと、石垣の上の壁に、敵意剥き出しの構造物が。

 下に向かって口を開けた石落としを囲むように、デンジャラスそうなものがたくさん突き出ている。

 ローカルFM局の放送を受信するためかな?と思ったら、なんとこれは忍び返しというものだそうな。

 壁沿いに刀を突き出しておくことによって、忍びの者たちの侵入を許さないようにしているのだとか(誰もいない時に石落としから侵入されるんじゃ……?)。 

 高知城でも忍び返しが現存しているのはこの一画のみだそうだけど、この忍び返しが現存しているのは、全国でこの高知城だけなのだという。

 つまりこの区画、国内唯一なのである。

 なにげに、国内唯一とか日本有数が多い高知城なのだ。

 日本の城に造詣が深い方々にとっては、高知城なんていったらもっともっと見どころだらけのスーパーマニアックゾーンなのだろう。

 我々が登った階段は「まっすぐルート」だそうで、このほかにもお城の周囲をグルリとゆっくりまわる「ゆったりルート」もあるらしい。

 木々や鳥を愛でるなら、そちらのほうが良かったかも……

 と思いつつも、酒を飲んだあとだとAEDがいるかも…と心配したほどにはしんどくなかったし、空は晴れ渡っているし、これ以上何も望むものはないくらいに高知城を堪能した我々なのだった。

 うーん、空が青いぜ!