I日和山公園

 トレーラーハウスの外観からは想像できない本格的海鮮料理を味わえる「石巻まちなか復興マルシェ」の敷地内にはこういうものもあった。

 そのほか、等身大よりやや小さめの、仮面ライダーやキカイダーたちのフィギュアがそこかしこに。

 それもこれも、写真の背後にある石ノ森萬画館のお膝元だからだ(石ノ森章太郎は生前、漫画のことを萬画という造語で呼びならわしていたそうな)。
 石ノ森章太郎は石巻出身でもなんでもないというのに、なんでここに?
 どうやら少年時代に深い縁があったそうな。まぁようするに、小樽に石原裕次郎記念館があるようなものなのだろう。

 ともかく石巻市は、これ幸いとばかりに「萬画の国」ということを大々的に売り出しているわけである。
 後刻見た石巻駅の駅舎の屋根にも、様々な石ノ森キャラが描かれていた。

 「漁港の町」ということでいくらでも大人の心を惹きつける魅力に満ち溢れているというのに、今さら石ノ森章太郎って、いったいどこのどんな層をターゲットにしているのかとっても不思議だ。

 昼食後、さらなる奥地を目指した。
 北のマスターの故郷、渡波である。
 付近には石巻漁港とはまた別の素朴な漁港あり、おだやかな内湾あり、そこでは牡蠣などの養殖がありといった、実にのどかな、絵に描いたような日本の海辺の町。
 しかしその地名からして、昔から津波の被害に遭ってこなかったはずがなさそうで、今回の大震災でも大きな被害が出た。
 先述のとおり北のマスターのご実家も、人的被害はなかったものの、家は跡形だけを残して消え去った。

 そんなご実家跡地を拝見させていただいた。
 近辺も含め、震災直後に支援活動に訪れたTさん夫妻もビックリするくらい、あれほど町中に溢れていた数々のものがすっかり何もかも片付いているという。

 片付くというのは、大きなマイナスからようやくゼロに戻ることなのだとしたら、これからいよいよプラスに転じていくに違いない。
 この先いつ襲い掛かってくるかわからない津波のことを考えると生易しいことではなさそうながら、是非またのどかな漁港の町になっていただきたい。
 かつての日本には当たり前にありすぎて観光資源的価値がさほどなかったかもしれない港町も、この先は間違いなく需要が高まるはず。
 少なくとも、仮面ライダーよりは集客力があると思うのだが……。

 このあと、津波を凌ぎきったサン・ ファン・バウティスタ号を崖の上から眺めた。

 広大な太平洋に挑むかのように雄々しく停泊している。
 そういえば、先に触れた中村雅俊出演の歴史ドキュメントは、この船こそが話題の中心だった。

 世に知られる伊達政宗の慶長遣欧使節、その裏にはスペインの力を利用して徳川と対抗しようと、もしくはあわよくば天下を狙おうとしていたのではあるまいか、という説がわりと有名だ。
 ホトトギスを殺すことも鳴かすことも鳴くまで待つこともできずに遅れて世に出た野望家・伊達政宗を思えば、けっこう納得できる話でもある。
 ところがその番組では、新たな説を紹介していた。

 政宗が慶長遣欧使節を送り出す何年か前、実はこのあたりは巨大な津波の被害を蒙ったのだという。
 もとより仙台藩は米どころである。
 それらが壊滅し、領地の経済は破綻寸前にまで追い込まれたのだとか。

 今の先例主義事なかれ主義のお役所仕事とは異なり、戦国の気風そのままのトップダウンによる復旧は迅速で、痛手は受けたものの津波によって仙台藩の力が衰えることはなく、それどころか将来いつ襲い掛かってくるやもしれぬ次の津波を見据えての対策も気宇壮大だった。

 米の生産ばかりに頼っていては心もとない。
 であれば、欧州との交易により経済力、ひいては領民の暮らしの安定を図ればよいではないか!

 ということを受けての、通商ルート開拓のための慶長遣欧使節ではなかったか、というのがその歴史ドキュメントの主題だった。

 もちろんひとつのことをひとつの目的のためだけに行なうはずがないから、その裏にはやはり「あわよくば天下を…」なんて野望もあったかもしれない。
 しかし、もし経済的な将来の津波対策も含まれていたのだとしたら、とてもじゃないけど今の行政にはけっして真似できない計画力&実行力。

 ひょっとして世の中って、機能不全意味不明の民主主義よりも、善意の独裁者のほうがうまく回せるんじゃなかろうか??

 サン・ ファン・バウティスタ号を見下ろす崖には寒風が吹きすさんでいるというのに、なぜかお兄さんがいた。
 「駐車はご遠慮ください」という場所に車を停める不埒モノに注意をする係の方なのかと思いきや、この眼下の船がいかに津波の被害を逃れたか(併設されていた資料館は壊滅)、というようなことをいろいろと説明してくれた後、スケボーにのってシューッ………と坂道を下っていった。

 実に不思議的スケボーお兄さんだった……。

 その後再び石巻の街中を探訪してみた。
 被害が大きかった海辺は更地や被災家屋がポツンとある風景ながら、街中は商店街が活気づいているほどににぎやかだ。
 そんな商店街にある魚屋さんに乱入。

 高級鮮魚・魚長。

 飛び出さんばかりに活きのいい鯛が踊る大きな看板の下には、鮮度高げな地のものがズラリと並んでいた。
 で、石巻最強ガイド北のマスターはズカズカと店内に入っていって、 

 「これ食べます?これどーですか?」

 とおっしゃるのである。
 食べるっていったって、まだ旅の途上の我々、ここで鮮魚を買い求めてもどうしようもないんですけど……

 と思っていたら、店の方とお話してから、やおら傍らで売られていた「鮟鱇の肝和え」を手にとるや、

 パクッ!!

 へ?
 あ……あのぉ、それ売りモンなんじゃ???

 「植田さんたちもどうぞ試食を!」

 え?
 こういう鮮魚店で試食???

 それは何も試食用に盛られていたわけではないのに、結局我々5名、手のひらに載せた鮟鱇の肝和えをパクパクパク……。

 う………美味いッ!!

 棚にはさらに、実に魅力的なものが。
 綺麗に開かれた穴子が、鰻のように串に刺された状態で売られていたのだ。

 美味そう……。

 「美味しそうですねぇ。食べましょう!」

 とおっしゃるやいなや、北のマスターはただちにお店の方に買ってここで食べたい旨を告げ、あろうことか「調理して♪」なんてお願いしてくださって……


撮影:北のマスター

 これがあなた、激ウマッ!!

 穴子って、こんなにプリップリのお体だったのか……。
 そこらで売られている鰻など、遠く及びもつかない。

 これまでの我が人生でいただいた穴子の中で、間違いなく他に例を見ない最高峰の穴子だ。

 おまけにお店の方が人数分のお茶まで用意してくださり、みんなでお茶を飲みながら穴子を賞味。

 右端の方が、料理からお茶の用意までしてくださった方。
 さぞかしご迷惑だったのではなかろうか…と心配していたのだけれど、なにげにピースサインを出してくれていたのでホッとした。

 というか、そもそも味見をしてから買う、というスタイルが、ここらあたりでは極々フツーなのだそうな。
 実に素晴らしい。
 対面販売の極地ではないか。

 魚の味自体もさることながら、巨大スーパーではけっして味わうことができない、魅力溢れる「お店」の味。
 これだから各地方の魚屋さんは侮れない。

 最強ガイド北のマスターのおかげで思いがけない「その土地の味」に出会ったあと、日もかげりはじめて鴉がたくさん空を舞う中、日和山公園に到着した。

 低地が広がるところに、まるで古墳のようにポコッと聳え立つ小高い丘だ。
 ここにきて風は一層強く、そして冷たくなり、丘の上はクロネコヤマトのチルド便配送車のようになっている。

 丘にある日和神社に参拝しようと手水を見ると…

 柄杓に氷柱がついてるしッ!!

 弱々しく蛇口から水が出ているものの、もちろん水面も凍っていた。

 日中の間に解けなかったんだ、この氷……。
 やたらと寒いのは気のせいではなかった。

 神社にお参りする段になって、北のマスターが知られざるエピソードを教えてくださった。
 なんとその昔、TBSのザ・ベストテンにて、石巻近辺でコンサートがあったため当地から出演したジュリーこと沢田研二は、何をどう思ったのかここを舞台に熱唱したのだとか。

 子供心にも北のマスターは、神社でそんなことしちゃっていいの??と素朴な疑問を抱いたらしいけれど、なんとこの日、我々の前にもジュリーが現れた!!

 真摯に参拝されているTさんご夫妻の後ろで、突如ジュリー化する北のマスター。
 子供の頃の素朴な疑問も忘れ、ノリノリである。
 「ムー一族」の樹木希林がここにいたら、間違いなく「ジュリ〜〜〜〜ッ♪」と言いながら抱きついてきたことだろう。

 神社は港を見下ろす位置にある。
 鳥居の向こうが石巻の港だ。

 鳥居のちょうど真後ろあたりが、昼間我々が横断した日和大橋。
 すなわち、ここからの眺めはすべて、どこもかしこも被災地である。その広大なことにいまさらながら呆然とする。

 夏草が風に揺られている様を見て、古の奥州藤原氏の栄華の名残りを感じとっては、おいおい泣きあっていた芭蕉と曾良2人の四十男たち。
 今ここでこの被災地を目の当たりにすれば、いったいどんな句を詠んだことだろうか。

 北のマスターが教えてくれた、日和山公園にある芭蕉と曾良の像。彼ら2人は奥の細道途上、ここ石巻にも立ち寄り、句は残さなかったものの紀行文を書き記している。

 それによると、

 平泉を目指していたはずのなのに、なんだか知らない道を歩いているうちに石巻に出てしまったぁ、どうしよう……

 って。
 なんだよ、迷って偶然来ただけなのかよ。>芭蕉。

 が、それは芭蕉の脚色で、実は当初から石巻経由で平泉を目指す予定だったそうな。
 脚色で迷ったことにするあたり、なかなかエンターティナーな芭蕉さんである。
 ま、幕府隠密としては、仙台藩の米の集積場でもある石巻港のチェックをしないでどうするってところか。

 ドライブ中、北のマスターの母校を小学校からずっとたどることもできた(翌日、電車の車窓からついに大学まで制覇した)。その他の学校も含め、低地にある学校が震災の被害を受けている様子はとっても切ない。
 その点、この丘にある県立石巻高校は、高台にあったおかげで津波で被災することはなく、それどころか崖下の小学生たちがここに駆け上がって難を逃れたのだとか。

 北のマスターが通学していた当時は駅からの坂道がとってもつらかったそうだけど、高台ゆえの坂道である。
 世の中何がどう幸いするかわからない。

 この広場から、先ほどの萬画館が建っている中州こと中瀬を見渡すこともできた。

 まるでローマを流れるテベレ川にある、ティベリーナ島のような風情。

 造船所も緑なす木々も一切合財失われてしまったけれど、新たな可能性を感じさせる見事な立地である。

 この中州に、萬画館のほかにも有名な建造物があるということを、なんともマヌケなことに帰宅後思い出した。

 屋根が吹き飛ぶ前の旧我が家には、実家からもらい受けた司馬遼太郎の「街道をゆく」がほぼ全巻揃っていた。
 ひととおり読み終えたあとも、どこか国内旅行をする際には関係する巻を読んだりしてもいた。
 後発のビジュアル版冊子も揃っていたので、旅行の際には大いに役に立ったものだった。

 今回の旅行でも、旧我が家がそのままであれば間違いなく仙台・石巻編を再読したであろうところ、残念ながら雨ざらしになった書籍はすべて灰にしてしまったため、手元に一冊もない。

 そのため、なんとなくボヤヤ〜ンと頭の片隅にあったような気がするものの、結局帰沖してから「アッ!!」と思い出したのが、旧石巻ハリストス正教会教会堂である。

 「街道をゆく26巻 仙台 石巻」の中で司馬遼太郎は、この建物についてこう語っていた。

 そこに美しい建物が保存されていた。
 西洋の教会とも、日本の城の櫓ともつかぬふしぎな折衷建造物だった。正面は八角形のうちの五つの面でかこまれた二階建造物で、玄関を構造する柱が四本ある。どの柱も、日本の寺院の柱のように、礎石というはきものをはいている。外壁は、白亜である。
 本屋(ほんおく)は、二階だての清楚な四角形で、正面も本屋もいっさい装飾がない。その点では、ある様式の神社のようでもある。

 そう建物を評した後に、こう結ぶ。

 なにやら、この明治製のロシア正教の建物を見ていると、石巻という街の個性が、この一点に象徴されているような感じがしてきた。私は、東北にハイカラさを感じつづけてきたが、そういう思いを形にすればこれではあるまいかとも思えてくるのである。

 この一文を初めて読んだ当時、是非一度この建物をナマで見てみたい…と素朴に思ったものだった。
 そんなことなどすっかり忘れてしまっていた……。

 ところが何の冥加か、ここから中州を眺めた際に撮った写真には、ちゃんとその旧教会堂が写っていた。

 その建物は今、こうなっている。

 この旧石巻ハリストス正教会教会堂もまた、津波の大きな被害に遭っていたのだ。
 4月からの完全復活を目指す萬画館の傍らで、人知れず(?)ヒッソリと工事用シートに覆われていた。

 ことさら司馬遼太郎に価値観のすべてを委ねているわけではないものの、ともかく石巻市には、萬画館と同じくらいにこの旧教会堂も大事にしていただきたいところだ。なんてったって石巻の個性を象徴しているのだから。

 しかし僕にとってこの石巻の街の個性の象徴は何かといえば、それはもちろん

 穴子ッ!!

 東北のハイカラさや美味しさを形にすれば、これではあるまいかと思えてくるのである………。

 いやホント、めっちゃ美味しいから皆さん是非現地でお召し上がりください。それも魚長さんでね♪