1月20日・2

22・高山陣屋

 朝食後洗濯機を使わせてもらっている間しばらく休憩し、その後再び町を歩いた。
 目指すは高山陣屋である。
 何かと名所旧跡が多い高山にあって、まずこれははずせないという建物だ。
 江戸時代は長い戦乱の時を経てたどり着いた平和な時代である。徳川家の力がなしたワザでもある。
 だからといって徳川家を王朝とした中央集権の国だったわけではなく、日本全国津々浦々、いろんな大名がそれぞれの土地で政をおこなってきた。封建制、幕藩体制といい、それぞれを藩という。
 一方、各地には徳川家の領地となった場所もたくさんある。
 天下を治めている家の直轄領地だから、それらは天領と呼ばれた。
 すでに徳川幕府に牙を剥く大名がいなくなった世にあっては、その領土を大げさな武力によって守る必要はない。とはいえ行政は敷かねばならない。この高山陣屋は、天領となった飛騨高山の郡代役所なのである。
 郡代役所は各地の天領にそれぞれ置かれていたので、それこそ星の数ほどあったものの、すでに全国で当時の建物が残っているのはここ高山陣屋のみ。全国唯一なのだ。
 もっとも、江戸幕府終焉時から大事に保存されていたわけではなく、明治維新後はそのまま地方官庁として使用され、昭和になっても県事務所が置かれていたそうだ。
 だから、一度近代風に大改装されたところもある。それらを再び元に戻して今に至っているわけである。

 季節限定とか地域限定の商品に弱い我々が「全国唯一」を見逃すはずはなかった。
 朝通らなかった道をテケテケテケと南下すると(川の流れ的には南上か?)、江戸時代の姿を今にとどめる町並みを抜けることになる。歩いているだけで気分がいい。
 町並みについてはあとで紹介することとして、とりあえずテクテク先に進む。
 有名な中橋についた。
 江戸時代、この橋が、鰤街道をはじめ高山から四方八方へ通じる道々の基点となっていたそうである。江戸の日本橋のようなものだ。
 宮川に何本も架かる橋の内、由緒正しき橋だからだろうか、この橋だけが朱塗りである。 
 春には満開の桜を、そして柳の青葉を背景に、朱塗りの橋はきっと映えていることだろう。
 今は冬。
 雪景色の中の朱塗りの橋………絵になりそうじゃないか。
 が。
 おりからの暖冬のせいか、期待したほどの雪はない。
 そんな僕たちの心が天に届いたのだろうか。
 朝はチラチラだった雪は、ここにきてものすごい勢いで降り始めた。
 積もれ積もれ、積もってくれ!

 この中橋を渡ると、ほどなく高山陣屋に着く。
 なんだか駅前のような感じだ。
 ここにも朝市があるが、宮川朝市同様冬は店の数が少ない。


 
高山陣屋

 陣屋の玄関前で工事があったのはアンラッキーだったが、視野の中でトリミングして見てみると、門構えはまるで「火付盗賊改方」のような重厚感。いや、天領のお役所だもの、それ以上の威容なのだろう。
 この土地の人々は、江戸幕府の存在をこの役所で感じ、そして敬意を払わなければならなかった。しかし僕たちがこの門で払わなければならないのは、入場料なのだった。
 大人1人420円也。

 この高山陣屋には、シルバー人材なのだろうか、無料で案内をしてくれるサービスがあるらしい。ガイドブックによると、混んでいることが多いので希望する人は予約が必要などと書かれてあった。
 面倒なので希望しないことにした。
 ところが、郡代役所時代は相当な身分の者しか通ることができなかったという玄関で靴を脱ぎ厳寒の玄関の間に入ると、始まったばかりの説明を3人の女性が聞いていた。我々がそこを通りかかると、いとしこいしのこいし師匠のような風貌のガイドさんが、
 「よろしかったらご一緒にどうぞ。時間がおしたら途中で抜けていただいて大丈夫ですよ…」
 と言ってくれた。
 飛騨高山の人たちは、とにかくみんな親切なのである。

 お言葉に甘えて館内くまなく説明をしてもらった。
 ひととおり説明を聞いてから、もう一度まわってじっくり眺めることにした。

 上の写真は、どちらもお白洲である。
 行政府は司法の場でもあったのだ。
 左の、うちの奥さんがハハーッとかしこまっているほうは北にあるお白洲で、民事訴訟を取り扱っていたらしい。身分によって「ハハーッ」をする場所が違い、お百姓さんたちは土間部分なのに対し、僧侶などはうちの奥さんがいる位置だったという。それでいくなら、彼女は本当は土間よりも低いところにいなければならない?
 一方、なにやら物騒なものが展示されているのは南側のお白洲である。刑事訴訟を取り扱っていた。
 重罪犯用なのだろう、いろんな拷問用具が復元展示されていた。
 かつて竹富島の蒐集館に行ったときは、一風変わった館長の手による拷問の実演を味わう羽目になってしまったけれど、観光客に優しい――いえ、けっして竹富島がやさしくないというわけではなく――この土地ではそんな目には遭わなかった。巨大洗濯板のような上に一度正座してみてもよかったか………な??

 説明がなくとも知識のある人なら見ただけでいろいろなことがわかるのだろう。しかし我々は百聞は百見しないとわからない。その点こいし師匠(ガイド氏)は説明しつつ実演してくれるので、無知な我々にはありがたかった。自分たちもやってみていいかとすぐに訊ねることができるのもうれしい。
 この明り取りの開閉も(スライドさせると閉まる!)、

 この自在鈎の上げ下げも(土瓶の高さが変わっているところにご注目)、

 こいし師匠に実演してもらわなかったら、きっと知る機会はなかったろう。それまでは、なんで「自在」鈎というのかわからなかったんだもの…。

 しかし、なんといっても今回こいし師匠のお話をうかがって最も「へぇ〜…」だったのはこれである。

 飛騨高山では藁がなかなか集まらないので、お金持ちの家は藁葺き屋根ではなく板切れを何枚も重ねた木市葺(こけらぶき)と呼ばれる屋根が主流だった。これは、板がどうやって葺かれているかを見せる模型である。
 僕たちが驚いたのは、その屋根の構造ではなくてその字。
 この「木市」という字。ブラウザ表示に対応してくれないのでここでは便宜上二文字を無理矢理くっつけているけれど、本当は木偏の文字一字だと理解されたい。
 新しく作った舞台の初上演などの際に「コケラ落とし」というふうに使う「コケラ」である。
 僕は、これまでず―――っと果物の「柿(かき)」と同じ字だとばかり思っていた。
 ところが、両者は別物だったのだ。
 果物の「柿」は木偏に市場の「市」という字、すなわちナベブタに巾という字を書くのに対し、コケラの市は一本の直線がまっすぐ下まで伸びているのである。
 活字やワープロ文字ばかりになってしまった弊害であろう、印刷物で両者の違いを見るのは難しい。
 後日大阪の実家に寄った際、自在鈎や明り取りの開閉については至極当然のごとく知っていたうちの父も、このコケラの字については人生65年にして初めて知ったようであった。
 こいし師匠に感謝しよう。

 いやすまぬ。
 ここにはもっと歴史的遺物がたくさん残っていて、飛騨の歴史についてもキチンと解説がなされた展示物がたくさんあるのだが、どうでもいい他のことばかり紹介してしまう……。

 今朝朝食前に散歩をした時点で、僕の頭の中では冬の飛騨高山のテーマソングが決定していた。
 実際に現地につく前までは、ずっと「赤影マーチ」だったのだが、ここにきて実態を知り、大幅に修正された。
 散策しながら頭をよぎるテーマとは……
 ジプシーキングスの「インスピレイション」である。
 鬼平犯科帳のエンディング曲といったほうが早いだろう。
 雪がふる町のそこかしこに、いつなんどきひょっこりと江戸屋猫八が出てきても僕は驚かなかったに違いない。
 当然ながら、この高山陣屋においてもテーマソングはインスピレイション。
 役者は物足りないけど、ちょっとそれっぽいでしょう?