23・古い町並み
雪はさらに勢いを増していた。
再び中橋に戻ってくると、橋の欄干にうっすらと積もっている。
高山陣屋からこの中橋を渡ると、古い町並みになる。
上一之町、上二之町、上三之町、そして安川通りより北の下一之町、下二之町、下三之町、これらを総称して「さんまち」と呼ぶ。川の上流が南側なので、南が「上」になる。京都が身近だった僕にはとっても不思議な感覚だ。
元禄年間に天領になった飛騨の国は、戦国という長い戦乱の時代ですらおおむね蚊帳の外といってもいいくらいに歴史の主要舞台にはならない。
それでも、かなりローカルな覇を求めた人がいて、織田信長が京にのぼり天下を掌握した時代には、三木氏が飛騨を掌握し信長に取り入っていた。藤吉郎が赤影を呼ぶ際には、本当は三木氏を通さなければならなかったのだ。
そのままこの人がこの地方を掌握していたら、今日の飛騨高山はなかったかもしれない。
ところが信長、秀吉と続く覇王の下でしゃにむに働いていた武人金森長近が、反秀吉の佐々成政についた三木氏を直接打ち破り、長年の功もあって、秀吉から飛騨地方を任された。
「生涯一捕手」といって現役にこだわったのは野村克也だった。この金森さんも、それまでの経歴を見る限り生涯一武人と言っていたのではないかと思えるくらいだ。
それなのに、飛騨の主となって以来、この金森さんはなんだかとっても文化の香る人になるのである。戦いに明け暮れる日々でありながら、もともと当時の教養層の最先端文化といってもいい茶道に秀で、おまけに都市設計の才能に長け、職能集団を自在に統御する能力をも備えた人だったのだ。
なんでこれほどまでの人が、とりたてて重く用いられることなく埋もれていたのだろうか。
長い間隠され続けていた才能が、ここにきてついに花開いた。彼なくして今日の高山はなかった。
とはいうものの、金森氏の時代のさんまちは武家屋敷の町だった。今のような町人の町になったのは天領になってからのことだ。
そういう意味では、今日さんまちを楽しく歩けるのは、徳川幕府のおかげかもしれない。
そんな町を歩いている。
ありあまる木材をふんだんに使えるからだろうか、家々の作りは必要以上とも思える木々の装飾に満ちている。出格子、千本格子が美しい。
陣屋よりも高い建造物はご法度だったということもあって、二階家であってもそれほど大きな建物はない。道幅も車が一台通れる程度なので、全体的にこじんまりしている。夜半、家々がひっそりと寝静まった頃にここに立ったら、間違いなくどこかのテーマパークと勘違いするだろう。
素晴らしいのは、それら古い町並みの家々が、今も現役だということだ。
さすがに一般家庭は少ないけれど、どれもこれもが現役のお店なのである。
土産物屋や食べ物屋、骨董品屋、お茶屋、造り酒屋といった店はもちろんのこと、歯科医院から産婦人科までここにある。だからここで生活している地元の人たちも歩いている。
着物を着飾った小さなおばあちゃんが、背中を70度くらい曲げながらヒョコヒョコヒョコと歩いていた。その先のとある店の前で、観光客らしき御婦人方が入店を躊躇していた。まだ開いていないように見えたのだろう。
そこに通りかかったおばあちゃん、やおらその店の引き戸を開けるや、
「入りなさい」
このおばあちゃん、この店の人でもなんでもないのである。
観光客婦人たちは驚き半分うれしさ半分、どう対応していいかわからなかったようだけど、まるで沖縄のオバアのようなノリを見た僕たちは笑ってしまった。
おばあちゃんは再びヒョコヒョコ歩き始め、2軒先の家の奥へと入っていった。
なんだか妖精を見ていたような気さえした。
江戸時代の面影を今に伝える小京都だもの、路地裏から江戸家猫八が出てもおかしくないくらいなのだから、妖精だってきっといるのだろう。
徹底的に景観が守られた通りを歩いていると、
「町並み」を観光資源にしよう
そう決めたこの地域の人たちの迫力が感じられる。
どんなに由緒正しい建築物であっても、ビルの谷間にあってはいかんともしがたい。たとえ一軒一軒に国がお墨付きを与えるような「価値」はなくとも、それらが形作る町並みのほうがよっぽど見応えがある。
長近から数代に渡ってこの町を作った金森氏の思いは、きっと今も生きているのだろう……
……と思う一方で。
今でこそ「小京都」、「古い町並み」という新しい価値観があるけれど、よくよく考えたら、町を作った金森氏は、当時の文化の最先端を持ち込んだのではなかったか?茶道の心にしても、春慶塗にしても、第一線の文化、そして最先端技術ではないか。
当然都市計画もそうであったはずである。
金森氏はなにも「古いもの」に価値を見出していたわけではない。もし今の時代に金森氏が飛騨を掌握したら、飛騨高山はたちどころに銀座や新宿新都心のようになるに違いない。
とはいえ僕たちは現代人である。
最先端に近いところにある文化として、「古いものへの憧憬」が生まれている時代に生きている。だからこそ、「飛騨高山テディベアエコビレッジ」という看板を見てはケッ!と唾を吐き(もちろん行ってない)、飛騨高山美術館への送迎用バスがロンドンバスで、しかもそれが中橋を通るということを知るや「気でも狂ったのか?」と思うのであった(幸い冬季は運休)。
金森氏なら、トトロの猫バスすら走らせたかな?
ロンドンバスはいただけないが、人力車は……まぁ、アリかな。
客引きに閉口したという体験談もあるらしいけど、僕らが見た限りではそんなに気になるほどじゃなかったし、そしてなにより………絵になる。
ね。
ただし、客待ちをしている車夫が町の片隅に人力車を止め、なにやら携帯電話で話しているのを見て僕は思った。
その装束で連絡するなら飛脚を使え!!
古い町並みといわれている部分は、簡単にいうと3本の通りが併走しているような町である。プラス宮川沿いの道をあるけば、このあたりは制覇したも同然だ。それを我々はいったい何度往復したことだろうか……。
安川通りを挟んで上下に分かれるさんまちでは、「上」なら三之町、「下」なら二之町が最も昔の姿を残している「古い町並み」であるという。上三之町を通ってきたので、では下二之町に行ってみよう。
なるほどたしかに古風な町だ。ただ、上三之町に比べると、工芸品屋さんはあるものの、観光客向けの食べ物屋は少ない。そのためか、上三之町に比べると人通りは少なかった。どちらかというと正真正銘に古い町であるようだ。
この下二之町に日下部邸と吉島邸がある。
仲良く隣同士で並んでいるこの町家、どちらも国指定の重要文化財だ。現在の建物は明治8年の大火で焼けてしまったあとに再建したものらしい。明治の建造物として全国で初めて国の重要文化財になったそうだ。
現在の両家は観光客に解放されていて、日下部家は日下部民芸館という名になっている。料金を払って入ってみた。
すごい。
中を一目見て僕がまず思ったことは……
う〜ん、住んでみたい……。
思わずタバコをくわえた三船敏郎化してしまった(あれは「寝てみたい…」だったけど)。
囲炉裏があって土間があって、そして何よりも天井が高い。そして家を形作る構造や材料がまたものすごいのである。建築学的なことは何一つわからないけど、縦横に張り巡らされた梁と柱の凄まじさ。機能美の結晶のようだ。たとえゴジラに踏まれてもビクともしないだろうことは容易に想像できた。
住んでみたい……。
が、ここに我がオウムたちを放そうものなら、たちどころに齧られまくるに違いない……。
町人の家なのに、江戸の昔からここまで凄まじく豪邸だったのかと思ったら、そうではなかった。
江戸期は町家の作りに材料からサイズから工法にまで制限があったために、飛騨の匠たちは思う存分その力を発揮できなかったという。それが、明治の世になって制限がなくなった。ともに商家として隆盛を極めていた両家が、火事で類焼したのをこれ幸い(?)とばかりにドドンッと改築したのがこのおうちなのだという。
ひょっとして、わざと火をつけたのでは……?
そう勘繰ってしまいたくなるほどに、とても商家とは思えないくらいにスーパー立派な家だった。
2軒を比較して論じるほどのマニアではないので、我々が入ったのはこの日下部民芸館だけである。
評者によると日下部家は男性的、吉島家は女性的な作りなのだという。
知らなかった。
どうせだったら女性に抱かれたかったなぁ……。
蛇足ながら、日下部邸内の各部屋を一通り見た後にお茶のサービスがある。
これほどまでの豪邸である。入館料は一人500円と高山陣屋よりも高いのである。その休憩処ともなれば、さぞかし豪華な飛騨銘菓が出るのだろうと思ったら……
塩せんべいなのだった(沖縄の塩せんべいに比べるとたしかによそ行きの姿)。
美味しかったけどね。
参考にしたネットの旅行記の中には、
飛騨高山は1日あればまわれます
と書いてあるものもあった。
冗談じゃない。
この町並みだけでも、何度行き来しても心地よい。たった一度通っただけで、
「古い町並みを見た」
それは間違っているぞ、おそらく。
歩き回るほどに、町が持っているのであろう、時の声、地の霊とでもいうべきものが心に染みてくる。この心地よさをなんといったらいいのだろう。
海水浴、森林浴という言葉があるのなら、町並み浴という言葉があってもいいのではないか。
これだけ心地よい町並みを、よくぞ守ってくださったと本当に頭が下がる。
町並みをウリにするからには、そこに住む人たちの理解と協力が不可欠になる。ときには我慢も必要だ。
この「古い町並み」には、その景観を守るための規制が敷かれている。主に居住者の建築物に関する規制である。不便なことばかりだろう。それを我慢してでも守るべきものがあるのだ。
それにくらべ、我が沖縄はどうだろうか。
海もある山もある。しかしそれらはいつまで現在形でいられるのだろう。かつては随所に見られた「町並み」も、やがて過去形になるだろう。どんどん便利になっていくのはいいけれど、この先観光客にいったい何を見せていこうというのだろうか。
何かを守るためには、何かを犠牲にしなきゃならないことがあるはず。ところが今までのところ、沖縄では守るものと犠牲になるものがあべこべになっている気がする。この先観光で食っていこうと思っていない……ってことなのかな?
そういう水納島だって、昔に比べれば随分変わったじゃないか
そう言われるのが、今の僕にはいちばんつらい……。
景観を守るために必要なものは、口先ではなく守ろうとする「迫力」である
この町並みを歩き、僕たちは大事なことをひとつ学んだ。
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