五大堂
瑞巌寺の参道を抜けると、もうそこは海岸道路である。
海岸には大小様々なボートが所狭しと係留されており、1本だけ大きく伸びる桟橋には、島巡りの観光船が引きも切らず出入りしている。
この多島海の島々のなかには、海岸からすぐ近くに位置しているものも多く、往古、それらの島々は寺であったり修行の場であったりしていたようだ。
その中の一つに五大堂がある。
松島といえば瑞巌寺か五大堂というくらい有名であるらしい。
恥ずかしながらどちらもまったく知らなかった我々だが、せっかく来たのだから両者を制覇してみたい。
そんなわけで、瑞巌寺のあとは五大堂に向かった。すぐそばなのだ。
海岸から朱塗りの小さな橋が延びている。
すかし橋という名だったか、足元は板木が一枚おきに抜けていて、5、6mほど下の海が丸見えなのである。橋のたもとの説明文によると、
「じっくりと1歩1歩足元を見つめつつ渡ることにより、お堂に参る心が鎮まる」
というようなことが書いてあった。浮ついた心で渡ってはいけないのである。
たった5、6mなのに、足下がズドンと空になっているとさすがに足がすくんだ。思いっきり浮ついていた我々は、橋の思惑通りになってしまった。心を鎮めるべく1歩1歩丹念に足を運び、橋を渡った。
いくら重要文化財といはいえ、この五大堂は小島の外から眺めてこそ価値があるようだ。小島のなかにたたずんでいるお堂のそばに行ってみたところで、小さなお堂があるだけなのである。国宝・瑞巌寺がその高名さどおりの荘厳な寺であったのに対し、五大堂はなんともささやかである。
現在のお堂は伊達政宗が改築したものだがもともとは坂上田村麻呂が蝦夷討伐のためにこの地へやってきた時に建立したものらしい。達谷窟毘沙門堂とほぼ同時期である。
その後に、慈覚大師が五大明王を安置したのでこの名があるそうだ。
またしても慈覚大師である。我々の行く先々に円仁の足跡がある。
箔をつけるために無理矢理「慈覚大師」の名を頂戴していたのではないのかなぁ。
雄島
海岸通りをしばらく歩くと、マリンピア松島水族館があった。
うちの奥さんが水族館に勤めていた頃、幾度となくその名を聞いた覚えがある。
名前だけ聞いていた時になんとなくイメージしていたものよりは遥かに小さなかわいい水族館であった。景観的にも巨大なものをこの地に作るわけにはいかないのだろう。
ここまで来て水族館に入るわけはない。その少し先の雄島に向かっているのだ。
渡月橋と呼ばれる朱塗りの橋が遠目に美しい。
なんの根拠もないのだろうが、この橋を二人で渡るとその仲は破綻をきたす、という現代風の俗説を耳にしたことがあったので、やや警戒しつつ、うつの奥さんを先に渡らせて写真を撮り、次いで僕も渡った。
この雄島は、瑞巌寺という名になる前から寺の修行僧の修行の場であったといい、瑞巌寺参道の脇にあったような岩窟がいくつも並んでいた。それぞれに仏名や仏像が刻まれている。
岩を削るなんて気の長い修行だ、と思うかもしれないが、やはりここも砂岩なのである。削る作業はそれほど辛いものではなさそうだ。
島を巡る道も、所々砂岩を削って作られているので、場所によっては岩と岩に鋏まれた個所もある。風が吹くと、ただならぬ気配が満ちる。
「通りぬけたら千と千尋の神隠しみたいに異世界になって、突然岩を削る修行僧だらけになったらどうしよう……」
とバカなことを考えたが、何事も起こらなかった。
島には芭蕉の句碑をはじめ、石碑がたくさん並んでいる。
しかし字を読むのが難しい。
メールで届く「鏑木」という字は読めても、石に刻まれた書は判読不能である。
その石碑のなかに奥州三古碑の一つ「頼賢の碑」があったらしいのだが、あまりにも石碑が多すぎて何が何やらわからなかった。それもそのはず。6角形の立派な覆堂で守られているから、石碑が剥き身ではなかったのである。
そういうウンチク系の話はわからずとも、この雄島はなかなか気分がいいところであった。
五大堂の小島に比べれば遥かに大きく、橋の反対側に行くと多島海を一望できる。海風がやさしく、お弁当持ってきたら気持ちよく食事できそうなところである。
修行の場といえば厳しそうな響きがあるが、修行僧たちも案外楽しくやっていたんじゃないだろうか。
海岸通りは、1キロほど続いていて、散歩道としてキチンと整備されていた。「新・奥の細道」の遊歩道に教えてやりたい。
松島四大観
周辺には松島湾を一望できる高台が何箇所かあり、なかでも松島四大観と呼ばれるところは往古よりその眺めを絶賛されていたところで、数多くの人がそこで腰を抜かすばかりに眼前に広がる光景に目を奪われたという。
雄島から少し先に、その松島四大観のひとつ、扇谷があった。
駅でもらった散策マップによれば、駅から徒歩30分だという。
すでに駅から10分くらいの距離にいたから、ここからそれほど遠くはない。
それに、やはり日本三景である。その眺望ベスト4から眺めてみなければ話になるまい。
というわけで、雄島からさらに先へ行軍を開始した。
これがあなた、もう大変だったのなんの。
雪のない八甲田山のようなものである。
100人くらいで行けば10人くらいは死んだのではないだろうか。
というのはあくまで僕の感想なのだけれど、どこまで歩けばいいのかわからない道のりを、ヒーコラヒーコラと歩くのはなかなかつらい。おまけに、当然ながら坂道である。展望するのだから高所にあるのは当然なのだが、地図だけだとピンと来ないのだ。
しかも、あれだけ見事に整備されていた遊歩道は、雄島を越えたあと、とってつけたような砂浜が途切れると同時に忽然と姿を消し、あとは国道の脇を歩かねばならない。
またこの国道45号線の交通量の多いこと。
にもかかわらず歩道がないのである。ただ白線で路肩を示しているに過ぎない。
そのうえカーブの連続だから、極端な話命がけで歩かねばならないのである。
「徒歩30分」
って、たしかに距離はそうだろうけど、ここを歩けというのか。他に歩いている人は皆無であった。
すれ違うドライバーの顔も、なにやら不思議なものを見るような怪訝な顔であった。
このまま気づかずに通りすぎて塩釜までたどり着いたらどうしよう、と思い始めた頃、ようやく扇谷の標識が見えた。
なんで展望するのに谷なんだろうと思っていたのだが、実は扇谷山という山だったのだ。
海抜55mだから地形的にはちょっとした丘なのだけれど、海抜0mから登ると巨山である。眺望を見て腰を抜かす前に、すでに腰は砕けんばかりになっていた。
最後のとどめのような階段のふもとは、燃えるような紅葉の林で、大きなカメラを持ったおとっつぁんたちが、思い思いの構図で写真を撮っていた。
これまでさんざん紅葉に目を奪われつづけていたが、今はとにかく「眺望」だ。
さあ、この階段の先に「その眺め幽玄」とまで言われた扇谷からの眺望が待っている。
登りきった先には展望台があった。
よ〜し!
と、腰を抜かさないよう気合を込め、挑戦的に眺望に向かった。
「…………………………?」
えーと…………。幽玄??
日本三景??
眼前の光景に腰を抜かすどころか、あまりのあっけなさにひっくり返りそうになってしまったではないか。
たしかに素晴らしい眺めではある。でもこれだったら、茅打ちバンタや万座毛から眺めた海のほうがよっぽど美しい。宮古島の東平安名崎のほうが圧倒的に壮大だ。沖縄各地の景勝地から眺める海のほうがよっぽど幽玄ではないか。
なにも沖縄だけではない。
串本の橋杭岩だって、東尋坊だって、ミミズだってオケラだってアメンボだって、今の目の前の景観よりも素晴らしいところは日本各地にあるぞ。
その後読んだ本で理解したところによると、これは、松島という存在が映像としての価値ではない、というところに大きく起因しているようである。
テレビも雑誌も新聞もない時代、あそこはいいよぉ、すばらしいよぉ、この世のものとは思えないよぉと多くの人が言っていたわけである。息をするのと同じくらい当たり前に誰もが歌を詠んでいた時代から、ずっと詩の世界で表現されていたのだ。
その歌だけがその地をイメージする唯一の手段といってもいい。
自然、歌の世界によせる思いはいやがおうにも膨らんでいく。
たとえば、惑星探査で奇跡的に地球環境とそっくりな惑星が見つかったとしよう。
そこはこの世の楽園とも言うべき素晴らしい場所で、天国、極楽浄土、桃源郷、古今東西のありとあらゆる理想郷どころのさわぎじゃないくらい素晴らしい。が、電磁波、光りの周波数、その他ありとあらゆる理由で、映像として伝えることができない。
その星についての情報は、実際に行った数少ない人間たちの口伝しかない。そんななか、詩人や作家がその星を詩的に描写し、いつしかその詩がその星そのものとなっていく………。
往時の松島はそういう状況だったのである。
いにしえより、この地を訪れた人も訪れなかった人も、争うようにその景色の美しさをたたえてきたから、芭蕉の頃には風流を愛する人なら誰もがその地の素晴らしさを知識として理解していたはずである。そのくせ、この地を実際に訪れた人は、訪れたいと願う人のうちのごく一部でしかなかったという。憧憬としての松島のイメージは膨らむ一方だったろう。
ようするに、松島の景観美というのは文学の世界での美しさなのである。
目の前の物理的な映像だけでは、その美しさを理解することはできないのだ。
映像美を求める人があまりにも多いから、今では島々の一つ一つを巡り、奇岩奇島を楽しむようになっているのではなかろうか。
たしかに一つ一つの島は、穴が開いているのがあったり、いわくつきであったり、いろいろあるが、日本三景としての松島の美とは、本来そういった一つ一つの島を言うものではないはずである。
ああ、哀れなるかな盆百の庶民。
なかでも哀れなのは、物理的な映像美を求めてこんな展望台まで上り詰めてきた我々…………。
平泉の展望台に続き、再びうなだれつつトボトボと帰路についたのであった。 |