今回の行き先は会津である。
これまでも行き先は唐突だったけれど、今回ほど脈絡もなく決定された行き先は過去に例がない。
きっかけはあった。
僕が漢検を受けている間に、うちの奥さんが1人で遊びに行った先が会津だったのだ。
前回当サイトに連載した漢検記では、それがあたかも最初から下見であったかのように書いたけれど、当初はそんな予定などまったくなかったのである。
そもそもなぜうちの奥さんが会津まで足を伸ばしたかといえば、
●雪を見たい
●温泉に行きたい
ということに加え、たまたまご縁があって東武鉄道を利用できるパスがたくさんあった、という以外にさしたる理由はない。
早い話、それらの条件を満たしていさえすればどこでも良かったのである。いわば適当に選んだ旅先だったのだが、これが思いのほか楽しかったという。
そういう話を聞くと、行きたくなるのが人情というものだ。
幸い、我々にはその機会があった。
うちの奥さんのコテン。(個展のこと)が東京で開催されるに際し、その準備をはじめとする諸々の用で再び上京するのだ。ならば、せっかくだから……
会津へ行こう!!
しかし会津といっても、現代における僕と会津の接点といえば、せいぜい都内で働いていた頃に代々木駅近くにあった喜多方ラーメンがやたらと美味かった、ということくらいで、それ以外にはまったくといっていいほどない。
だから現在の会津の観光事情などまったく知らない。
知らないから、全面的にうちの奥さんを頼ることにした。ナニゴトであれ、経験者がいるというのは便利なものである。いくら記憶力のメモリーチップが2 MB程度であろうとも、ひと月前くらいなら大丈夫だろうし。
ただ、会津へ行くならどうしても行ってみたいところも一つ二つリクエストしておいた。
喜多方で本場の喜多方ラーメンを食べる、ということと、会津若松城、すなわち鶴ヶ城を見る、ということの二つ。
ターゲットをそれに絞って観光ガイドなどを見てみると、さすがに旅の重要な目的となっている昨今のグルメ情報は豊富で、喜多方ラーメンのお店もたくさん載っていた。
が。
沖縄ガイドブックに載っているお店がすべて美味しい店かというとそうでもないのと同様、るるぶ福島の情報だって、素直に信じていいはずがない。
ではどうするか。
学生時代の友人に、喜多方出身者がいた。
別件で6年ぶりに連絡を取ったその友人に、ここぞとばかりに訊いてみた。
すると……
「さて、喜多方のラーメン屋ですが、駅近辺は×です。ちょいと歩きますが市役所近辺まで行かないと、はずれクジ引いちゃうよ!
お勧めは、
●阿部食堂
●まこと食堂
あとは、母親が市役所勤務の際によく利用した
●松食堂 (超メジャーな坂内食堂の隣)
あたりかな。
どの店も、濃い目の醤油味、太いちぢれ麺です。食べた後にノドが渇くのでご注意を。」
なんとも詳しい、地元出身者ならではのラーメン屋情報を教えてくれたのである。
日程的に我々が喜多方を目指すのは月曜で、どうやらまこと食堂は月曜定休らしいので、目指すは阿部食堂か松食堂。いずれも月曜定休だったら笑うしかない。
というわけで、僕にとっての最大の目標のひとつである喜多方ラーメンへのベクトルは定まった。
お次は鶴ヶ城だ。
どこへ行ってもお城があるとついつい観たくなるものだけれど、会津抜きには語れないのが幕末史、そしてこの城抜きには会津藩を語れない。さらに会津藩抜きには、ラーメンを語れない。<そうなのか?
会津藩のことなら多少は知っている。幕末の時代に少しでも興味があれば、誰しも耳にしたことがある白虎隊も新撰組も会津藩に深く関わりがあるし、昨年京都を散策して訪れた蛤御門もまたしかり。
でも、訪れる以上はもう少し知っておいてもいいかもしれない。
そもそも僕は、それまで特に表立った活躍を見せなかった会津藩が、幕末も押し詰まった時期になって、なぜ急に歴史の表舞台に飛び出てきたのかというあたりのことをよく知らない。
そのためには、会津藩とはどういう経緯で生まれたのか、というあたりからおさらいせねばならなかった。すべてはラーメンのために……。
※ そんなことは百も承知だ、という方は3ページ目へどうぞ!!
1・会津藩誕生編
仙台に代表されるように、現在では東北地方にも洗練された都市がたくさんあって、東北地方=田舎という図式はすでに過去のものになっている。
でも。
会津地方
と聞けばどうだろう。
少なくとも、そこにきらびやかな不夜城都市をイメージする人はいないだろう。
会津は今も、多くの人々にとって「田舎」なのである。
ところが!!
その会津が、全国でも一、二を争う文化学芸武芸の先進都市であった時代がある。
群雄割拠の戦国時代が終了する頃、時の権力者にとっての会津は、東北地方の勢力へ睨みを効かす意味で最も重要な場所にあった。そのため歴代、時の権力者にとって信頼の置ける大名がこの地を任されてきた。
今年の大河ドラマの主人公直江兼続が仕えている上杉景勝も、奥州に君臨する伊達政宗への抑え、そして関八州の家康へ睨みを効かせる意味もあって、秀吉によって会津を託されたわけだ。
が、時代はめぐる。
関が原の合戦以後、ついに徳川氏の世となり、武威を極めた上杉氏は米沢で逼塞、会津はその後加藤義明とその子の時代を経、3代将軍家光の頃に保科正之が任されることとなった。
さて、この保科正之。
この人、実は3代将軍家光の異母弟なのだ。
武家社会の頃のこと、異母弟など珍しくもなんともない、と思われるかもしれないけれど、ところがどっこい、家光の父、2代将軍秀忠に関しては、現代における恐妻家サラリーマンとまったく変わらない。
秀忠の奥方は浅井長政の娘、つまり織田信長の妹お市の娘、すなわち大阪夏の陣でその子秀頼とともに滅んだ淀君の妹。
生まれがそういうことだからなのか、それとももって生まれた性格なのか、この奥方が相当のやきもち焼きで、武家の棟梁ともなれば側室の5人や10人は当たり前だったこの時代なのに、秀忠はついに一人の側室も持たずに母ちゃん一筋でその生涯を終えた。
………のだが。
誰にでも、どんなときでも「魔がさすとき」というのはあるもので、生涯をかけて母ちゃん一筋だった秀忠が、たった一度だけオイタをしてしまった。
それがまた、ものの見事にビンゴ。
名もないお女中に子が出来てしまったのだ。
慌てふためいたのは母ちゃん一筋の秀忠である。
そんなことがバレてしまったら殺される!!<自分が。
そう思ったからかどうなのか、そのお女中は身重の身のまま市井に戻され、何事もなかったかのごとく一件は落着した。
が。
さすがに秀忠も心苦しかったのか、その晩年になり、ようやくその子をいわゆる「認知」し、信州の小藩2万5千石の高遠藩主保科正光へ5千石の持参金つきで養子として預けた。
それが保科正之である。
これでめでたしめでたし……
…では終わらない。
それで終わっていれば、ひょっとしたら幕末の日本史はまったく違うものになっていたかもしれないのである。自分のまいた「タネ」が、隠し子だけではなく、幕末の激動史まで生み出すことになろうとは、秀忠も夢にも思わなかったろう。
秀忠の嫡子、3代将軍家光は、この腹違いの弟には父以上に思いをかけていた。そのため彼の治世となってから、高遠藩の保科正之は、いったん最上20万石を経て、幕府にとっての最重要ポイントのひとつでもある会津藩24万石を任されることとなった。
数万石から二十数万石への大躍進である。
当の保科正之にとっては、名もなき市井の一市民で終わるやもしれなかったことを思えば、ありえないくらいの立身出世だ。
そのうえ。
家光はその臨終の間際に弟・保科正之を呼び、
「徳川宗家を頼む」
そう言い残したという。自分とは違い、実直勤勉沈着冷静のこの弟を、相当信頼していたのであろうことがうかがえる。
この家光の「遺言」が、幕末の物語を作った。
家光死後、保科正之は、まだ幼い4代将軍家綱の後見職として幕政を担当。兄の願いどおりに徳川将軍家を盛り立て、その後長く続く徳川体制を磐石なものにした。
しかしそれは、彼個人の秘めた思いだけに留まらなかった。
保科正之は以後もついに領国である会津には立ち入らなかったそうなのだが、優れた家臣団に対し、会津藩はかくあるべし、という十五か条からなる「家訓」を示した。
会津藩士としての心構えなどからなるこの十五か条、これすべて、突き詰めれば「会津藩が徳川将軍家のためにある」ことがらが述べられている。
もし藩主が徳川宗家に二心を抱いたら、家臣は藩主に従ってはならない、とまで言っているのである。
自らを拾ってくれた徳川宗家への、彼の感謝の念の大きさがわかろうというものだ。
この家訓が、代々の会津藩主の心の基になっていく。
正之自身は保科家への恩義があったため、徳川将軍家から勧められていた松平姓を名乗ることなくその生涯を閉じたものの、3代目あたりから松平姓を賜った保科氏は、その後もこの家風を守りつつ、会津松平家として好学尚武を心掛け続けた結果、やがて全国にその名が轟く屈指の雄藩となっていく。
幕末を迎える頃には、その学問は佐賀藩と並び称され、その武名は天下に鳴り響く先進の強国になっていたのである。外国船が日本の周囲に見え隠れするようになってからというもの、なにかといえば幕府が会津藩を頼りにするようになるのも当然だった。
幕末の会津藩とはそんな国だったのだ。
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