Aプロローグ2・会津に光を

2・会津藩・激動の幕末編

 昨年の大河ドラマは、近年稀に見る好評のうちに幕を閉じた。
 ご存知、篤姫だ。
 当サイト日記コーナーでも何度も触れたとおり、僕もけっこう楽しく観ていて、時には涙がチョチョギレもした。宮崎あおいは役者としてすごい、とも思った。東京メトロの宣伝ポスター、同一人物とは思えないくらいに可愛いなぁ、とも思った。<それは関係ない。

 が。
 あくまでもドラマは、香取慎吾の新撰組!がヤングサンデー的少年マンガであったように、篤姫は「完璧なる少女マンガ」として評価していた。
 だって、池に落ちかけた篤姫を素早い身のこなしで将軍家定が助けた後、バカ殿のフリをしていた家定が、まじめな瞳になって篤姫と向き合うシーンなんて、あれを少女マンガといわずになんと呼ぶ。

 その他いろいろ、演出的にも少女マンガを強く意識しているようにしか思えなかったのだが、それはそれで楽しかった。

 でも、ひとつだけしっくりこないことがあったのだ。
 クライマックスもクライマックスの、江戸城無血開城以後の話である。
 大奥の責任者として、篤姫が江戸城や江戸の町を守りたいというのはよくわかる。そして結果として、西郷にその思いが伝わり、江戸のお城も町も無事の残り、徳川宗家も絶えることなくめでたしめでたし……… 

 という話だったのだが、ちょっと待て。
 戊辰戦争における会津藩はどうなったのだ!?
 会津藩なんて、そもそも慶喜が謹慎、江戸城は開城、つまり全面的に旧幕府側が降伏した状態にあっては、その先戦争をする意義などどこにもなかった。藩主松平容保(藩祖保科正之から数えて9代目)は、慶喜が謹慎に入った時点から、全面的に官軍に対して恭順姿勢を示していたのである。
 なのになぜ、白虎隊の自刃に代表される会津藩の悲劇があったのか。一藩をあげて壊滅の憂き目を見なければならなかったのか。

 革命には「血」が必要だからである。
 当初「官軍」側は、その「血」のため、慶喜の首を獲るという勢いで拳を大きく振り上げた。
 が、当の慶喜のほうが一枚上で、すべてを捨ててサッサと謹慎してしまい、江戸城も無血で開城され、官軍としては振り上げた拳の持って行き場がなくなってしまった。

 そのままそれを是として新政権への移行となったとしたら、はたしてその後の版籍奉還や廃藩置県、はては武士階級の終焉といった大鉈といっていい改革はなしえていただろうか。
 当時における武士階級の解体というのは、現代社会でいうなら欧米キリスト教諸国がすべてイスラム化するくらいの、ありえないくらいの大改革だったのである。しかしいくら「ありえな〜い」と叫ぼうとも、欧米列強の脅威に対する日本の近代化促進のためには、避けては通れない大改革でもあったのだ。
 日本には、ただちに「国民」を作る必要があった。
 これまでずっと「武士」が負っていた義務を、「日本人」すべてが負うようにしなければ、欧米列強の脅威に抗する術がない。
 そのためにはまず、「武士」という存在を社会から消す必要がある。

 そんな大改革には、どこかで力の行使が必要なのである。
 今の世の中のように政治状況を逐一テレビやネットが配信してくれるわけではない当時、日本中の人々に権力の移行を認知せしめるには、時の権力者=将軍慶喜の首を獲る、というのがもっともわかりやすい。
 が、慶喜はすでに「敵」の立場から完全に離れてしまっている。
 では、何をもって「わかりやすい敵」とするか。
 その格好の標的が、当節日本屈指の雄藩と誰もが認めていた会津藩だった。

 なぜ会津藩が格好の標的にされるのかといえば、その最たる理由は新撰組である。組織されて以降の新撰組は、会津藩御預という立場だったのだ。

 新撰組といえば京都の治安警察部隊である。
 天誅の名の下に治安を乱す浪士たちを、見つけ次第切捨て御免の、チャンバラ活劇には欠かせない人斬り集団だ。
 そしてその新撰組の最たる標的が、長州藩士たちだった。

 己のイデオロギー的正義を実力行使をもってアピールすることをテロと呼ぶなら、幕末の京都における尊皇攘夷派の武闘派はテロリストといってよく、いってみれば京の都は、今のイラクのバグダッドのようなものだった。 

 当初はテロリストの動きも各個における小規模なものだったから、バグダッドの駐留米軍的立場の新撰組の仕事も、町中の見回り程度で済んでいたものの、時勢が煮詰まってくるにつれてテロリストの活動も活発化過激化し、それらを阻止すべく働く彼らの仕事ぶりは、池田屋襲撃に代表されるように、より大きなものとなる。

 当然、恨みも買う。
 特に禁門の変以後逼塞せざるを得なくなる長州藩士たちの恨みつらみは、おそらく筆舌に尽くせぬほどだったろう。
 そんな彼らが、まるで手品のような薩摩との外交戦略により、天皇の名の下に官軍になった。
 その他、当初から倒幕サイドでいたがために粛清されていた官軍側の人々から見れば、振り上げた拳の持って行き場として、かつての怨敵新撰組の大元である会津藩以上の標的が、この世にあろうはずはなかった。

 それにしても、現代の大阪にいた頃の僕から見てもあまりにも遠い東北の会津藩が、なんで風雲急を告げる幕末に、遠路はるばる京都でわざわざ火中の栗を拾うような真似をしていたのだろうか。

 僕なんかは以前、会津はやっぱり中央からは遠い遠い東北の藩だから、世の中や時代の流れがわからないまま、ただただ時流に巻き込まれてしまっただけの哀れな藩……としか思っていなかった。
 ところがこれがまた、知れば知るほど涙なしには語れない物語なのだ。
 そしてそれは、日本史上他に例がないほどの、最大級の貧乏クジの物語でもある。

 幕末における会津藩藩主松平容保は、幕府から「京都守護職」という役目を拝命した。
 この聞きなれぬお役目、学校で歴史を習っていると突如幕末に登場してくる。それもそのはず、本当に幕末になって作り出されたお役目なのだ。

 井伊大老が桜田門外にて暗殺されて以降というもの、幕府の威光は地に落ち、特に天子のおわす京都においては、個人個人のイデオロギーの対立抗争が実力行使に発展し、おまけにそれに便乗した単なる狼藉も頻発するにおよび、もともとあった京都所司代なんぞクソの役にも立たなくなっていた。
 だからといって、幕府も放置するわけにはいかない。
 では誰にこの京の都の治安を託せば良いか。

 ……という段になって、幕府に人材が無い。
 これまた幕末に急遽設けられた政事総裁職に就いていた越前藩主松平春嶽と将軍後見職の一橋慶喜は、さて誰にしたものかと思い悩んだ挙句、閃いたのが会津藩だった。

 藩主容保自身は病弱そうな身なれど、会津藩自体はその名が天下に轟く雄藩で、しかもその質実剛健の家風と徳川将軍家大事の家訓は、多くの人々の知るところでもある。

 じゃあ、容保ちゃん、京都のことよろしくね!

 そうブッシュに言われ、二つ返事で引き受けるのは小泉純一郎くらいのものだろう。当時の幕府が頼りにできるほどの藩がいくつあったかは知らないけれど、素直に引き受ける者など一人としていなかったろうと思われる。
 益など何もなく、ただただ格好のターゲットにされるだけの警備活動をするために、誰がわざわざ多額の予算を費やし、己の国を危うくしようと思うだろうか。時すでに事態は風雲急を告げ、治安は乱れに乱れ、京の都など誰も手の施しようがなくなっているのだ。

 誰だってそう思う。ましてや、この当時有数の知の力も持っていた会津藩である。時代の流れを把握していないはずはない。京都守護職なんぞになろうものなら、その後の運命は火を見るよりも明らかだ。
 かててくわえて会津から京はあまりに遠い。
 参勤交代で江戸を往復することはあっても、王城の地・京を実際に目にしたことがある藩士が、会津にいったいどれほどいただろうか。

 そういうこともあり、幕府……といっても実際は越前公と慶喜2人からの要請を、まるでWBCの監督就任要請を頑なに辞退し続けた星野仙一のように、藩主容保は再三に渡って固辞し続けた。

 が。
 会津藩には、藩祖保科正之から連綿と続く「家訓十五か条」があった。
 ただいつに、徳川宗家のためにあるべし。

 そこを突かれてしまった容保には、もはや断わる術はなにもなかったのである。

 もちろん家臣たちは猛反対だ。
 容保が幕命を受けたと知り、会津から馬を飛ばして江戸藩邸まで藩主を諌めに来た家臣もいる。
 「殿、火中の栗を拾うようなものにござる!!」
 なにしろ京都守護職拝命=お家滅亡の危機なのである。

 しかし、会津藩の存在は徳川宗家とともにある。
 この信仰にも似た藩祖以来の家訓を前にしては、もはやどうしようもなかった。学問も信仰も、実施に移してこそ意味を成す。徳川300年で、初めて「家訓」の究極の教えに従うべきときではないか。
 家臣を前に容保はいう。

 「会津藩は京を戦場に、死ぬ覚悟でゆこう」

 藩主も家臣も、声を放って哭いたという。

 つまり彼ら会津藩は、京都守護職なんぞを引き受けてしまったが最後、やがては藩ごと死滅することになるであろうことが、最初からわかっていたのだ。

 容保が京に上ってから、時勢は一気に加速し、その運命は彼らが予測したほうへほうへと変わっていく。
 ただし。
 時の帝、孝明天皇だけは違った。
 インターネットどころかテレビラジオも無い時代、外国人といっても実際に目にしたことがある宮廷人など1人もいなかったこの時代である。宮廷人は無知なるがゆえの「攘夷(外国人をうちはらう)」論者ばかりで、その病的なまでの攘夷思想が、政事を受け持っている幕府を悩ませ続けていたものの、孝明天皇は幕府に対しては好意的で、攘夷思想をネタに幕府を倒そうと画策している長州藩などの動きを毛嫌いされていた。

 かといって御所内は長州や薩摩に金で通じた公卿たちばかり。実際上のことで頼りになるものなど誰もいない。
 そこへ、質実剛健真実一路の会津藩の登場だ。
 帝が同世代でもある会津藩主容保を頼りにされるのも無理はなかった。
 直接言葉を交わす機会はなくとも、

 「容保はん、よろしゅうたのんまっせ」

 だったのである。
 容保は会津藩をあげて見事にその期待に応えた。
 帝の信頼はいよいよもって篤くなる。容保は容保で、この帝のためには一藩死すとも悔いなし、という心意気になってくる。

 しかし!!
 ああ、運命とはなんと残酷な……。
 容保をこそ!と頼りにしてくれていたこの孝明天皇が、突如病没してしまったのだ。
 倒幕勢力にとってあまりにもタイミングが良すぎるために、暗殺説もあるほどだが、事実は天然痘を患われたという。が、天然痘を患うよう仕向けることは可能なのではあるまいか…。

 ともかく、帝の突然の崩御により、登れるだけ登った後、梯子をはずされた格好になったのが会津藩だ。
 京都守護職拝命はただただ徳川宗家のため、京都にあってはひとえに帝のためだったというのに、気がつけば「逆賊」。

 おまけに、あれほど執拗に容保を京都守護職に推した越前公は、いつのまにか官軍側についているではないか。反自民で選挙に当選しておきながら自民党に逆戻りしていい目を見ている議員のようなヤツである。
 また、将軍慶喜はといえばあっけなくすべてを投げ捨て、あらゆる人が「戦えば勝っていたであろう」と言われる優位さがあったにもかかわらず、徳川宗家まで捨てて謹慎。頭のいい彼は彼で、「逆賊」にはけっしてなるわけにはいかない水戸史学という「信仰」があったのである。

 恭順姿勢も認めてはもらえず、かくなるうえはと官軍を会津にて迎え撃ち、ひと月間にもおよぶ奮闘虚しく、一藩を挙げて叩きのめされ、挙句の果てには藩士1万余人は、荒蕪の地であり極寒の地でもある斗南に移封となった。

 これすべて、幕命に従い京都守護職を受け、徳川宗家のため、そして天朝のために働き続けた結果である。 
 主従の誰もが覚悟していたこととはいえ、史上、これ以上の貧乏クジ的役割が他にあったろうか。

 ちなみに、藩主容保は、そういった文句を一言も発していないという。

 「京でのことは、すべて新撰組がやったことです」

 会津藩としては、幕府が組織した浪士結社の身元を、京都守護職という立場上預かっただけなのだから、そう言ってもおかしくはなかったのに、それすら口にしなかった。むしろ、新撰組への思いは篤かったものと思われる。
 ともかく彼は、ただひたすら口をつぐんでいたのだ。

 会津戦争後、「逆賊」容保は、その後明治26年まで生きることになる。そして死を迎える最後の最後まで、肌身離さず大事に大事に身に着けていた一本の筒があった。
 その死後、遺族や旧家臣が筒の中を改めたところ、そこには………

 「私にとってはそなただけが頼りなのである、だからくれぐれもよろしく頼む。ただしこれは人を憚る内容だから、くれぐれも外に漏れることのないように……」

 といったことが縷々述べられた、孝明天皇が容保宛に直接書かれた2通の手紙が入っていたのだった。

 何も語らず、彼は維新後もただただこの手紙を肌身離さず四六時中身につけていたのである。
 容保の無念の思い、推して知るべし。

 そんな会津藩に一言も触れることなく、ああ良かった良かったで終わってしまうとはナニゴトだ!!

 …と、僕は大河ドラマ「篤姫」にいいたかったわけだ。
 いくら少女マンガとはいえ、それではあまりにも会津藩が浮かばれない。

 だったら!!
 せめて会津へ足を運んだときくらいは、彼ら会津藩士たちが日々眺めていた鶴ヶ城からの景色を、時代を超えて味わってみよう。そしてもちろん、喜多方ラーメンも味わおう。

 というわけで、会津紀行、始まり始まり〜〜。