12・銀座築地界隈散歩

 美味しいお刺身をいただいて、生ビールをジョッキで2杯飲んでしまえば、いいコンコロもち状態になるのは当たり前。

 これでさらに歩き続けたら倒れそうだったから、いったんホテルに戻って休憩することにした。
 散歩日和のいいお日柄に部屋でゴロゴロしているのは、これすべて夜に万全の体調で臨むためである。

 そうやってお昼寝している間に、ちょこっとばかし築地界隈を観光してみよう。

 銀座から築地市場への行き帰りには、わかりやすい道を選ぶなら必ず晴海通りを通ることになる。
 その晴海通り沿いにあるのが、ご存知歌舞伎座。

 銀座のマッシモ劇場といったところだ。
 名所だけあって、カメラを向けている人も多い。
 築地方面と銀座を何度も行き来した我々は、この歌舞伎座を一生分ほど眺めることになってしまった(中には入ってないけど)。

 多いといえば、12月1日からスター揃い踏みの仮名手本忠臣蔵が上演されていることもあって、日中の歌舞伎座の前は黒山の人だかりだった。

 それが夜になると、当然ながら誰もいなくなる。

 ライトアップされた建物には、昼にはない趣が………

 ……というか、湯婆婆が住んでそうな雰囲気もある。

 この晴海通りを銀座方面へ向けて昭和通りを越えると、街路樹の足元にさりげなく「銀座」があった。

 拡大。

 ね?銀座の字。

 知ってなきゃまず気づくことはないだろう。
 というか、これに気づいている人がいったいどれほどいるのだろうかってなくらいにさりげないところに手間ヒマかける、そういうところが好きですワタシ。

 さりげなくはないのに誰も気にしてないという意味では、銀座にはあちこちになにやらの「碑」がある。
 やれ銀座発祥の地であるとか(写真下)、一橋大学発祥の地であるとか、電灯が灯った記念だとか、建物自体の由緒だとか。

 それらの碑を注視しているヒトをついぞ見かけなかったけれど、そういった碑の存在は、やはり歴史ある街の趣を醸し出す役目を果たしているのかもしれない。

 しかしヒトに読んでもらうために存在しているもののうち、我々が最も感動したのはこれだ。

 築地市場正門にある、拾得物掲示板。
 落し物のお知らせである。

 眼鏡とかアイホンとか、SUICAってのはわかる。
 でもカラフトマスとかゴリとかボラって………。

 落し物を案内する掲示板は数あれど、こういう品目を日常的に目にできるのはおそらくここだけだろう。

 正門前の通りを築地場外市場方面に向かい、そのまま市場を越えると、そこは……

 築地本願寺。

 とても日本のお寺とは思えぬエキゾチックな本堂が異質な雰囲気を醸し出す、浄土真宗のお寺だ。

 もともとは浅草に本堂があったそうなんだけど、江戸初期の大火で消失してしまい、そのうえ火事の後は幕府の区画整理のために元の場所に建立することができず、代替地として八丁堀の先の海があてられたそうな。

 区画整理によって涙を呑むってのは、今の時代に限ったことではないのですね………。

 それにしても、代替地が海ってどうなのよ。
 もともとが西本願寺の別院だったから、これは徳川家による苛めなのだろうか。

 そこで一肌脱いだのが、佃島の門徒である。
 佃島といえばもともとは摂津の国佃村の漁民たちが家康によって強制移住させられた土地。
 すなわちそこに住む人々は、ほぼすべて本願寺派の門徒だったことだろう。

 そんな彼らが、本堂再建のために海を埋め立てて築いた土地、それこそが「築地」という地名の由来なのである。

 無事再建なった当時の本堂は、今の築地市場に向いていたという。
 場外市場のあたりに「門跡橋」だとか「門跡通り」という名前が残っているのは、その名残りなのだろう。

 その本堂も、関東大震災に伴う火事で消失。
 どんだけ焼けるんだ、本願寺……。

 そして20世紀初頭に、現在のコンクリート製インド洋式寺院が完成している。
 さすがにコンクリートなら焼けないだろうってことなんでしょうか??

 そんな築地本願寺を初めて訪れた土曜日には、本堂内で仏前結婚式が行なわれていたようだった。
 なるほど、そういう手もアリか。

 ただ。
 その同じ日に、本堂目の前の本来は駐車場であるはずのスペースにて……

 ……秋田ハタハタフェスティバルが開催されていた。

 通りに面した境内の周囲にはフェスティバルの幟がはためき、ステージではなにやら歌って踊っているヒトがいて、入り口付近ではナマハゲたちが訪れる人たちと記念写真におさまっている。

 秋田もハタハタもナマハゲも嫌いではないけれど、なぜにここで???
 恒例行事なんだろうか。

 由緒正しき厳かな寺院なのかと思っていたら、そのあたりもエキゾチックな築地本願寺。
 しかし少なくとも、仏前で結婚式をしようという新郎新婦もご両家親族も、おそらくは望んではいなかった雰囲気であるに違いない。

 この築地本願寺、昼はインド洋式なのに、夜に来てみると……

 わぉ……………アラビアンナイト!!

 ちなみにオタマサはここにいます。

 巨大寺院が異国情緒を醸し出しまくりなのに対し、築地に古くから鎮座まします波除神社は、あくまでもヒッソリと(というには提灯がにぎやかだけど)静かにたたずんでいた。

 佃島の人たちがこの地域の埋め立てを始めた江戸時代初期、荒波のせいでどうにも工事が進まなかったために、波を鎮めようってことで、工事中に発見されたというご神体(本当か??)を祀る社殿がこの地に建てられたのだとか。

 その後波がおさまって工事が無事に進んだという創建エピソードにまつわるご利益は、この地域に住まう人々にとっては創建当時から縁浅からぬものだったことだろう。
 築地本願寺がこの地にあるのも、元をただせばこの神社のおかげなのである。

 付近を通りかかる人たちの中には、境内に入らずとも鳥居の下で静かにキチンと社殿に向かい、神様に対して頭を垂れている人たちが多かった。

 今では厄除け全般が守備範囲となったご利益、そもそもが波除となれば、我々も素通りするわけにはいかない。
 今シーズンは数年ぶりにナニゴトも起こらなかった感謝を込めて、丁重に参拝。

 そのお力が、今後とも遠く沖縄の海まで及びますように……。

 この神社、立地的に市場関係者とももちろん深い縁があるようで、さほど広くもない境内には、玉子塚とか寿司塚、海老塚といった、一般的に「塚」が必要なんでしょうか?と首をひねってしまいそうなものを対象とした塚がある。

 生命をいただいて生きていくという業を背負った生き物である以上、それを生業としている方々にとっては極めて真摯な気持ちであるに違いない。

 このほか気になっていた場所のひとつに、築地軍艦操練所跡があった。
 幕末、勝海舟が教授陣の一員になっていた、幕府の洋式海軍訓練所である。
 史実として残っているのかどうかは知らないけど、きっと坂本龍馬も訪れていたに違いない場所だ。

 その後の連合艦隊、そして現海上自衛隊、はては沖田艦長まで続く日本海軍の系譜のスタート地点である(沖田艦長は架空です)。

 きっとこのあたりなんだろうなぁと思いつつも、残念ながら食べるお店探しに気をとられていたせいで、いったいどこなのか知らないまま終わってしまった。

 それがまさか、現築地市場こそがその跡地だったとは!!

 しかも、江戸時代も末期も末期の慶応3年には、火事のために浜御殿(現・浜離宮恩賜庭園)に移転したというではないか。

 「ココです」という説明文や碑文こそ見ることはできなかったけれど、計らずも我々はその地に立っていたのだった。

 そして近い将来、軍艦操練所跡地は、築地市場跡地にもなるわけだ。

 人々がそこで生きた証は、人々の思いに関係なく次々に「歴史」になっていく。