17・月島・佃島散歩
人生初もんじゃを体験したあと、東京のトラステベレ地区とでもいうべき月島・佃島界隈を散歩してみることにした。 見渡せばそこらじゅうに高層ビル、そしてもんじゃ焼きの店が建ち並ぶ通りはなにやら今っぽい雰囲気ながら、このもんじゃストリートから一歩入った路地はこんな感じだ。 軒下にぶら下がっているのはカラスミ。 こういう路地が幾筋もあって、それらがきれいな阿弥陀くじのように繋がっているから、路地を適当に歩き回っているだけでも、何気ない風景がなんだかしみじみ楽しい。 そんな魅力溢れる路地がたくさんある一方で、開発されているところは開発されている。 立派なビルの1階に観音様が……。 なんでも長野の善光寺の別院だそうで、由緒正しい観音様ではある。 その隣にあるのが、かつての交番。 昭和になる直前に改築されて以来、2007年まで現役の交番だったという。 このあとさらに足を延ばしてみた。 江戸入府した家康が、摂津の国佃村から漁師を呼び寄せて江戸に住まわせたのが始まりだという。 当時江戸近辺には漁師がいなかったのだろうか。 いずれにしても、どんだけ魚食べたかったんだ家康!! …と思っていたら、なんとなんと、まだまだ世が定まらぬ頃、上洛していた家康に魚を献上したことが縁となり、その後佃村の漁師さんたちは、家康の西国海上隠密作戦に従事したり、大坂の役では糧食としての魚の提供や、軍船として船の提供をするようになっていたのだとか。 家康が彼らに江戸での漁業権を与えたのは、すなわち恩賞だったのである。 見知らぬ江戸にやってきた彼らは、恩に着たのか迷惑に思ったのか……。 というか、まだ豊臣家が存続している頃から徳川方についていただなんて、摂津の国佃村の人たちは、大坂方にとっては思いっきり裏切り者ってことか??? そんな漁師さんたちの江戸移住後50年くらい経ってから、砂州程度でしかなかった小島を埋め立て工事で多少拡張し、そこに住まうようになって、故郷の名をつけたらしい。 今でこそかつての佃島の周囲は埋め立てが進んで陸地のごく一区画という感じだけど、漁師さんが移住した際の佃島なんて、隅田川の河口の真ん中にひょっこり浮かぶ、四角い水納島的小さな島だったのだ。 月島区域は明治になってからの埋め立てだそうだから、随分長い間「小さな島」状態だったんだろう。 そんな「元祖佃島」に渡る佃小橋の手前に、波除稲荷神社がある。 小さなたたずまいではあったけれど、築地の埋め立てに欠かせない働きをした佃の人々なのだから、きっと築地の波除神社の分社的存在なのだろう。 でも目の前の船溜まりでは……… 船が沈みかけてるんですけど………。 ひょっとしてご利益無いの??? この波除神社からすぐのところに、知らなければそれと気づかない路地がある。 路地というよりも、もはや家と家の間でしかないスペース。 なにやらアヤシゲな入り口が。 ……って、アヤシゲなんていうとバチがあたる。 子育地蔵さんにはとんとご縁がないけれど、イチョウの大木をちゃんと生かしたまま屋根を造っているところが素晴らしい。 ついでにいうと、その銀杏の根元に…… …置いてある、大きなシャコガイの殻が不思議だった……。 このデブ禁止の路地を通り抜けてから佃小橋を渡る。 橋の上から眺められる船溜まりには、 という掲示物が。 しかし、由緒あるもの、歴史あるものを残そうというこのような努力がある一方で、その背後には…… ウォーターフロント!! この橋の上からの眺めが、今の佃島の雰囲気を最も表しているのかもしれない。 この元祖佃島には、住吉神社がある。 当時の人々にとって、それも自然とともに暮らしている人たちにとっての神社といえば、カトリック信者における教会に匹敵するほど無くてはならないものだから、故郷の祭神に見守られるようになって以後は、さらに安住の地になったことだろう。 この住吉神社の祭神に東照御親命(家康の霊)の分霊が祀られていることをみても、佃島の漁民たちが家康に感謝していたのであろうことが伺える。 その住吉神社の鳥居の背後にもまた、大きな銀杏の木があった。 なんかこのあたりって、寺社仏閣に銀杏の木をセットにするのが昔からの慣わしなんですかね? 紅葉同様銀杏も沖縄にはないので、黄色く色づいた銀杏の木がやたらと懐かしくももの珍しい我々にとっては、皇族の筆によるという鳥居に掲げられた陶器製の扁額よりも、銀杏のほうに目を奪われてしまう。 そしてこの地が東洲斎写楽終焉の地である、ということにも気づかないのだった………。 引き続きテクテク散歩する。 この元祖佃島の隅田川側にあるのが…… 本家本元、佃煮屋さん! 佃煮は摂津の国の佃村発祥ではなく、この佃島の漁師さんたちのオリジナルヒット商品だ。 だからこの佃島に今も残る3店舗が、紛うことなき元祖も元祖なのである。 脳内食欲中枢を刺激する佃煮のステキな香りが、店の外にまで充満していた。 このお店の向かいに、佃島渡船場跡の碑がある。 誰も気づかないほどにヒッソリたたずんでいる碑の傍らに、説明書きがあった。 この渡し船、江戸の昔の話なのだとばかり思っていたら、なんと昭和38年に佃大橋が完成するまで、ずっと現役の(隅田川の渡し船としては最後の)渡し船だったそうな。 水上バスがあれほど運航しているくらいなんだから、佃の渡しだって、復活させればけっこう需要があるんじゃなかろうか…。 往年の渡し船に思いを馳せつつ、元祖佃島を後にした。 レプリカが建っている(土台部分が公衆トイレになっている)。 今見るとなぜにこの場所に灯台が必要なのかピンと来ないけど、上に揚げた古地図を見れば一目瞭然、ここはこのあたりの海上交通の要所だったのである。 この石川島と呼ばれている区域には、かつて江戸幕府が設けた、軽犯罪者向け自立支援センターといっていい人足寄場があって、この灯台はその寄場奉行が設置したものという。 ところでその人足寄場、後代こそ寄場奉行なる役職が設けられたけれど、その初代管理長官こそが、誰あろう鬼平こと長谷川平蔵そのヒトだったのだ。 彼が火付盗賊改方長官だった頃に老中へ建言したことによってその自立支援センターができたので、鬼平は火付盗賊改方長官を務めつつ、寄場の責任者もしていたそうな。 明治まで続いたこの自立支援センター。 そのあと、背後の佃小学校のグランドのにぎやかな声を聴きながら、佃公園のベンチで休憩。 このあたりの路地も散策してみた。 やがて近い将来、こういう風景も過去のものになるのだろう。 路地を抜けて大きな通りに出ると、そこにあるのが肉のたかさごだ。 昔から肉屋さんといえばコロッケがつき物だったけど、なにげに不思議なのは、コロッケってポテトのほうがメインじゃないの?ってことだった。 でもこのたかさごさんのコロッケは、ちゃんと肉の味が。 そのほかこの月島・佃島界隈の路地には、ひさご家阿部のレバーフライとか、超路地裏の店といっていいモツ煮込みの店「げんき」とか、昭和な喫茶店「ふるさと」のテイクアウトも可能なハンバーガーとか、焼き立てメロンパンなどなど、魅力的な食べ物がたくさんあった。 そんな食べ物列伝以上に気になる場所があった。 その名も盆ちゃんというらしい。 夕刻が盆ちゃんの散歩する時間という話だったので、是非ともその姿を見てみたい…… ……と思っていた我々。 ああ、商店街を歩くケヅメリクガメを見たかった……。 魅力溢れる食べ物よりも、そちらのほうに未練が残っていたりするのだった。 |