ハワイ紀行

〜またの名を暴飲暴食日記〜

12月7日(火)

時差ボケか?

 30時間以上眠っておらず、しかもかなり歩き回って疲れてもいるはずなのに、なぜか夜中の12時前にパチッと目が開いてしまった。いったん目が開いてしまうとなかなか寝付けない。モゾモゾしていたら、そのうちうちの奥さんの目もパチッと開いた。お互いに寝られないねぇということになってしまった。これが時差ボケというヤツか?

 こういう場合は無理に寝ようとしても寝られるものではないから、開き直ってガイドブックを見て過ごすことにした。

白地図を塗りつぶそう

 うちの奥さんというのは、事前に情報を得る、ということをまったくしない。例えば、年に6、7回は二人で映画を見に行くことがあるが、見る映画というのはすべて私が選んでいるので、どれほどの話題作であっても、うちの奥さんは、出演者とか内容とか、知りたくなくても生活していれば普通に耳に入るごくあたりまえの情報すら知らずに席に着いている。
 映画を見るうえでこれほど楽しい状況はないに違いない。
 シックスセンスなんてブルース・ウィリス主演であるとか、ちょっと怖い映画だよ、とかいうことすら知らずに見に来てるんだもの。

 そんな人が、ハワイに行くからといって、日本にいる間にガイドブックを見ていろいろ調べるはずはない。しかし事ここに至ってようやく気になり始めたらしく、このあと予定されているツアーの行き先や、このホテル近辺の地理、その他モロモロを私に質問しながら、ガイドブックを見て理解し始めたようだ。白地図状態だった彼女の頭の中のハワイに、だんだん色彩が加わってきているのが手に取るようにわかった。でもすでにあらかた予定が決まっている今になって、どこに行きたい、ここがおもしろそう、なんて言い出すのだから困ったもんだ。

 そうこうするうち、はからずも眠くなってきた。午前2時だった。夜はけっこう冷え込むよ、と聞いていたけど、窓を開け放してあるのにぜんぜん寒くなかった。ふと横を見ると、いろいろなことを知って満足した奥さんはすでにスヤスヤと寝入っていた。

鎮魂真珠湾

 熟睡後の快適な目覚め、というわけにはいかなかったものの、6時半頃、わりにぱっちり目は開いた。2日目の始まりだ。今日は12月7日(日本は8日)。58年前の今日、日本海軍の零戦が突如パールハーバーに襲来したのだ。その半世紀後に、このように日本人が数多くハワイまで観光に訪れるようになるなんて、攻撃に参加したパイロットたちも、対米開戦を決めたアホたちも、トラ!トラ!トラ!で浮かれまくった日本人たちも、日本を追いつめたルーズベルトも、爆撃によって亡くなったアメリカ兵たちも誰も想像だにできなかったことだろう。

 ラナイ(ベランダのこと)の外を見やると、さわやかな朝の光に満ちていた。そんな心地よい通りを、すでに多くの人が散歩している。車も活動的に行き来している。その中には、まだまだパールハーバーが歴史になっていない人たちもいたことだろう。この日はパールハーバーで毎年恒例の戦没者を悼む式典が行われたそうで、その出席者の中には、当時せっかくレーダーに大挙飛来する機影が写っている、という報告を受けたにもかかわらず、

 「ヌーが?エェ、演習中のB−17だはずよ。じぇったいだいじょうぶぅ!」

 と言ってしまった将官が出席していた、ということがテレビのニュースで流れていたらしい。言うまでもなくレーダーに写っていたのは日本の零戦で、彼が判断を間違えなければ数千名もの死者を出さずに済んだかもしれないのだ。彼にとっては、その後の戦争の帰趨がどうであれ、悶絶に悶絶を重ねる苦悶の日々であったに違いない。傷を抱えたままの人はまだほかにもたくさんいるのだろう。

 そんな日にハワイにいるのはどんなものか、と思ったけれども、人心あくまでも穏やかないつものハワイであった。

ラナイで朝食を

 本日の午前中のプランは、昨晩の食事中に決定している。ダイヤモンドヘッドに登ろうということになっているのだ。てっきりうちの両親は前回来たときに登っているもの、と思っていたのだが、ふもとの登り口に行っただけ、ということだった。

 さて、何時に出発するか。そういうことは目覚めたときに決める、というのが一番シアワセだ。でもシニアーズの3人、特にうちの父は朝がめっきり早くなってしまったので、いつ起きるかわからない我々をじっと待ってはいられない、という。仕方ないので、とにかく9時出発ということにしてあった。

 だから、朝飯は9時までにすませなければならない。幸い我々にはあのてんこ盛りフルーツがある。昨日のうちに半分はうちの両親に渡してあるが、それでもたっぷり冷蔵庫で冷やされている。ラナイで豪華フルーツ盛りを食う朝食、というのもなかなか魅力的じゃないか。ただしフルーツだけでは力が出ないので、ちょっと早起きしてファーストフード店で何か買ってくることにした。

マヒマヒマヒマヒ

 うちの奥さんはマヒマヒのフィレオフィシュを食いたがっていた。今年の10月、とあるホテルから水納ビーチにシイラが大量に差し入れされ、そのおこぼれに預かったことがある。おこぼれと言ってもほぼ丸々一匹分で、すでにケンタローも帰っていた頃だったから二人で食いきるのに苦労したほどだ。刺身にしたりソテーにしたり、どのようにして食ってもおいしかったが、フライにして食ったとき、それがマクドナルドのフィレオフィッシュの味とそっくりであることに気がついた。

 日本のマクドナルドのフィレオフィッシュが本当にシイラかどうかは知らないが、少なくともハワイのマックのフィレオフィッシュはマヒマヒ、つまりシイラであるらしい。他のファーストフードでもマヒマヒ・バーガーなるものがあることを知ったうちの奥さんは、食べたくて仕方がないようだ。しばらくずっとマヒマヒマヒマヒ言っていた。

 マックも近くにあったが、どうせなら日本にはない店に入りたい。ジャック・イン・ザ・ボックスという、有名なファーストフード店が近くにあったのでそこに入った。残念ながら求めていたマヒマヒの姿は見えなかった。まあ、そのうち食えるだろう。クロワッサン・サンドウィッチセットを3人分買って部屋に戻った。

ハトハトハトハト……

 ラナイのテーブルに、フルーツてんこ盛りと買ってきたサンドウィッチを載せると、音がするからだろうか、白いハトがラナイまでやってきた。最初は5,6羽しかいなかったから気安くパンくずをやっていたのに、どんどんどんどん集まって気がつけばすぐ下の屋根の上に30羽くらい集まっている。我々だけじゃなくて、ラナイのあちこちでいろんな人が餌を与えているからだった。ハトは平和のシンボルであるとはいえ、にわかにこんなに集まるとやや不気味だ。しかもすべて白いハト。ハワイはマジシャンが多いのか?

 早朝はさわやかな朝焼けだったのに、空はいつの間にか曇っている。東の方からどんよりした雲が接近していたのだ。やがてその雲はザーッと雨を降らし、そのまま足早に西へと去っていった。この間わずか15分。人々はのんびりなのに、雨雲は気ぜわしい。

 昨日父に聞いたのだが、12月のハワイというのは、量は別にして2日に1回は雨が降るような天候だという。なんだよ、そんなの聞いてないよぉ、とは思ったものの、雨とはいえ、軽いスコールのようなもので、晴れと曇りが一日のうちでひっきりなしに交代するような天気だからまあいいか。東の空を見るとすでに青空が見えている。きっと晴れ続けていたら「あちぃ〜」とか言って文句を言っていたろうからちょうどいいかもしれない。

 飯も食ったし、準備も整った。時刻は9時少し前。いやあ、今日は万事予定どおり順調に進行しているなぁ。さあ、ではダイヤモンド・ヘッドに行くかぁ!

ダイヤモンド・ヘッドへ

 ダイヤモンド・ヘッドといえば誰もが知っているハワイの名所である。特に、海外旅行が一般的ではなかった頃から成人している世代にとっては、憧憬中の憧憬だったろうから、

 「ダイヤモンド・ヘッド」

 という名前には、ロマンあふれる響きがあるに違いない。しかしこの名はヨーロッパ人が来てから名付けられたのであって、それ以前のハワイアンたちは、「カツオの頭」と呼んでいたという。カツオの頭じゃぁ誰も来たがらないだろうね。

 ワイキキのホテル街のバックに悠然とそびえるダイヤモンド・ヘッド、という風景写真は、ハワイに興味がなくとも誰しも一度は目にしているだろう。だからだろうか、ダイヤモンド・ヘッドというのは海に細長く突きだした岬だと思いこんでいる人が少なくない。ところが実際は巨大なクレーターの外輪なのである。上から見ると、ポッカリと大きな口を開けた輪なのだ。

 その一番高い部分にホノルル市街を見渡せるささやかな展望台が設けられていて、そこに至る登山道も整備されている。ふもとから片道約40分ほど、というから、子供でも気軽に登れる程度である。

 ダイヤモンドヘッドの登山道入り口へも、我らがオリオリ・トロリーは行ってくれる。そちら方面の最寄りのバス停はワイキキ水族館なので、てくてくと歩いていくことにした。昨日少し街を歩いてみて、地図を見て感じていたよりもそれぞれの距離が随分近いことを知ったし、それにもうこのあたりの地理は頭に入っているから迷うこともない。

 ワイキキ水族館へ至る道は緑豊かなカピオラニ公園を通っている。沿道には沖縄でもおなじみのモクマオウが何本もそびえ立っていた。その向こうには、昨日行ったこの木何の木の公園が小さく感じられるほどの、広大な芝生と木々の土地がある。ここも老子のお弟子さんだらけで、この木何の木のモンキーポッドや、ガジュマル、インド菩提樹などどれも皆巨大である。そのすべてに神様が齋いているかのごとき「格」があった。かといってけっして衰えた樹木ではなく、蒸散で吐き出している水蒸気すら感じられるほどに、木々は青く瑞々しい。晴れ渡る空の下、こういう公園を歩くのはとっても気持ちがいいものだ。

 ワイキキ水族館へは15分ほどで着いた。ハワイ大学の研究施設でもあるワイキキ水族館はかわいいかわいいささやかな建物であった。バス停の場所がはっきりしなかったので、車に荷物を積めていた水族館の職員に尋ねると、彼は気持ちよく応対してくれた。うむ、午後はここに来てみることにしよう。

 有料のワイキキ・トロリーと同じバス停なので、先にワイキキ・トロリーがやってきて危うく父ちゃんは乗りかけたが、ほとんど待つこともなくオリオリ・トロリーがやってきた。8分間隔で運行しているのだから当然だ。

 トロリーが動き出して公園を抜けると、一気に郊外、という雰囲気になった。花々に彩られた美しい庭が随所にある。どの家の敷地も広いが、建物自体はそんなに大きくはない。けれど、敷地一杯に2階、3階建てを造って、余ったわずかな場所を「庭」もどきにしている最近の日本の住宅に比べたらよっぽど「高級」住宅だ。

クレーター内へ

 いよいよダイヤモンドヘッドに近づくにつれ、山道になってきた。道の外側の斜面の下はすぐ海で、ワイキキビーチとは比べものにならないくらいに青い。トロリーはバスと違って開放型車両なので、海の気配を濃厚に感じながら進み続けた。

 どんどん標高は上がり、車を停めて海を眺められる展望台を何カ所か通り過ぎたあと、トロリーはトンネルに入った。いよいよクレーターの内側に入る。ダイヤモンドヘッドの登山道はクレーターの内側にあるのだ。

 驚いたことに、クレーターの内側には米軍の施設があった。軍用トラックが大量に並んでいる。沖縄の米軍施設には、それを囲むこれ見よがしに威圧的なフェンスがくっきりと目にはいるものだが、クレーターの中の米軍施設にはフェンスがあったかどうか記憶が定かではない。つまり印象に残らないほどだから、仮にフェンスがあるにしても、沖縄ほど敵意むき出しのフェンスではなかったのだろう。

 そんなことよりも今はとにかく登山をしなければならない。ガイドブックの忠告どおり、展望台付近用に上着も持ってきた。もちろんスニーカーを履いている。途中真っ暗なトンネルを通るからライトがいる、とも書いてあったが、登山口でライトを安く貸し出している、と友人から聞いていたとおり、2ドルで安っぽいライトを貸し出していたのでそれを借りた。片道40分の行程のうち、そのライトを使ったのは5分にも満たなかったが、無ければかなり困るところだったから、ちゃんと2ドル分の活躍はしてくれた。

荒蕪の土地

 先に通ってきた公園は瑞々しいばかりに緑豊かな草木が茂っていたのに、クレーター内はまさに荒蕪の土地、という雰囲気である。そういえばクレーターの外も露頭がむき出しで、貧相な植物が細々と生えている程度だった。なぜなんだろう?まあそのうちわかるだろう。

 路頭で、思い出した。ハワイといえば火山の島々、しかもクレーターのダイヤモンドヘッドであるからにはそこらじゅう溶岩なのだろう、と思っていたら、むき出しの大地はどこもかしこもきれいに層状になっているのだ。たしか地質を学んで大学を卒業したはずなのだが、すでに地学に関しては中学生の理科レベルしか理解できない私には、その層状の大地を見てもさっぱりわからなかった。

 しかしとっても疑問だったので、帰ってきてからちゃんと勉強していた友人に問い合わせたところ、なんとダイヤモンドヘッドというのは、「マグマ水蒸気爆発」という、スーパーサイア人のカメハメ波のようなすさまじい爆発によって出来たのだそうである。つまり層状になっている岩は火山灰なのだ。

 その火山灰で出来ている荒蕪の土地には土壌がまったくなく、水納島でもおなじみの木だけが勢力を誇っていた。ギンネムだ。ギンネムはジャイアンツの上原をはるかに上回る雑草魂の持ち主で、アメリカ本土から輸入された家畜飼料に混じっていたタネが沖縄じゅうで芽を出し、戦後あっという間に沖縄じゅうの野山で見られるようになってしまった。ハワイでは「フォーリン・コア」すなわち外来のコアの木と呼ばれている。きっとハワイにもアメリカ本土経由でやってきたのだろう。

 そんな荒れた土地には愛でるべき小鳥たちもいようはずはなく、おかげで黙々と登山に集中することができた。

難所は終盤に

 本来は直角に近い角度でそびえる山に、急勾配にならないようジグザグに登山道が配置されているため、登山は、坂を登ってはターン、登ってはターンを繰り返すことになる。
 幸い覚悟していたほど混んでおらず、ショッピングセンターにはアリの群のようにいる日本人も、ここではそんなに多くなかったので変なイラだちはない。
 しかし、ショッカーが飛び出してきそうな荒蕪の土地を歩き続けるのはさすがに飽きてきた。「マグマ水蒸気爆発」なんて刺激的な言葉を知っていれば、太古の壮大なイベントに思いを馳せられたろうが、この時の私は地質的には「?」マークが7つくらい頭の上で踊っていただけだった。

 まだ先は長いのかぁ、と呻きつつもエッホエッホと登り続けていると、やがて階段が見えてきた。たしかガイドブックには、頂上手前に急勾配の階段が、というようなことが書いてあったはずだ。ようし、もう一息だ!!

 先が見えると勢いづくもので、だめ押しのような階段もなんてことはなく登っていけた。なんだ、急勾配というほどのモンでもないじゃないか、と登り切ってから角を曲がり、ふと先を見ると、おお、なんてことだ、天まで届きそうな急勾配の階段がそびえ立っているじゃないか。こっちがウワサの階段だったのだ。

 くじけそうになって見上げたら、すでに両親はテクテク登っている。還暦に負けている場合ではない。気を取り直して歩き続けることにした。最後の気力を振り絞って階段を登っていると、にわかに空はかき曇り、雨がパラパラと降り出してきた。なにも展望台直前で降ることはないだろうに。恨めしく雲を見上げ、歩を進めた。

 99段の階段の80段目くらいで雨足が強まってきた。こりゃイカン、急げや急げ!階段を登りきったところに、前述の真っ暗なトンネルがあるから、雨をしのぐにはもってこいだ。階段を登りきって下を見ると、休憩してからゆっくり攻めるつもりだった父ちゃんとうちの奥さんが、雨に追われてゼイゼイしながら上がってきた。

 真っ暗なトンネルをライトで照らしつつ進んでいると、あちこちで、「いや、ここ真っ暗ヤワ、」とか、「何も見えな〜い」とかいう声が聞こえてきた。トンネルがあるということを知らない人もけっこういるのだね。たったの2ドルがいったい何人分の助けになったろう。私はにわかトンネル照らし人となっていた。

絶景かな絶景かな!

 そのトンネルを抜けると、今度は最終アプローチラインでもあるらせん階段にたどり着いた。灯台に登るときのような狭い階段で、おまけにここも真っ暗である。こんなところでお化け屋敷のようなアトラクションがあると、きっと何人か死人が出ることだろう。

 登り切ると、そこは二〇三高地のロシア軍のトーチカのようなところだった。それもそのはずである。あとで知ったのだが、この展望台施設は、戦前に造られた真珠湾防衛用の監視壕なのだそうだ。肝心要のときに役に立ったのかどうかは知らないが。

 雨がピーク状態だったためみんなここで雨宿りしていたようで、うちの両親もいた。ようやく小ぶりになると、皆いそいそと外へ出はじめた。もうそこが展望台だ。

 頂上にたどりつき三六〇度を見渡せば、眼下に広がる海、山、緑、そしてホノルル市街。私は急速に石川五右衛門化し、絶景かな絶景かな!と言わずにはいられなかった。先ほどの雨を降らせた雲は駆け足で西の方へ去っていき、青い空を見上げれば、まるで我々を歓迎するかのように、太陽が力強く燦々と輝いている。そしてその太陽が洒落た演出をしてくれた。ワイキキのホテル群の上に、虹の橋を架けてくれたのである。さっきはあれほど恨めしく思った雨雲さんよ、僕は君を誤解していたよ。

 振り返ると巨大なクレーターがあった。007シリーズなら、底が割れてロケットが発射されるに違いない。

 心地よい涼風が吹く頂上は、汗だくになってでも来る価値のある素晴らしいところだった。いつまでいても飽きない我々二人ではあったが、気がつくと三人のシニアーズはすでに頂上から姿を消していた。日本人旅行者は、なかなか一所でゆっくりしないのである。下で長時間待たすわけにもいかないから、ひとしきり満喫したあと、我々も下山することにした。

観光業の試練

 下りは膝が笑ってしまうものの、道のりに見当がつくから余裕である。すれ違う登りの人に対して、なんだかわからないが変な優越感みたいなものもあるし。例の急階段の下では、それを目前にしたFatな白人女性二人が、なかば絶望的に休憩していた。ふもと付近では、あろうことかハイヒールでスタスタ歩いている日本人のおばちゃんとすれ違った。どちらもその後どうなっただろう。

 登山口まで帰ってくると、シニアーズ三人はベンチにすわって休憩していた。父と父ちゃんは満足そうにたばこを吸っている。登山道は当然のことながら禁煙だったのだ。喫煙者ではない私はまったく不自由していないのだから、そこまでしてガマンをしなければならないのなら、いっそのことこの機会にたばこをやめてしまえばいいのにねぇ。

 行き交う人々を眺めつつ、ベンチに座って登山の寸評のようなものを語らいあっていたとき、突然父ちゃんが、そばでライトを貸し出しているお姉ちゃんに、乾燥梅干し(中国経由の沖縄名産)を一個プレゼントしに行った。慣れてくるとだんだん大胆になってくるのだ。

 得体の知れないものをもらったそのお姉ちゃんこそ気の毒というものである。でもさすが観光業、イヤな顔をせず、いや、ちょっとしていたか。それでもちゃんと食った。アジア人でさえやや抵抗するかもしれないものだから、白人女性にとっては驚異の食い物だったことだろう。

12月7日(火)パート2へ