〜湯けむり地獄うどん旅〜

天領焼酎鉄輪

 体内の毒気がすっかり抜け落ちたかのようなすがすがしい気分で宿に帰ってきた。
 風呂に入ってきたばかりだというのにというのに、食事前になっていきなり
 「ひとっ風呂浴びてくる」
 と言い残し、うちの奥さんは露天風呂へ。
 夕食のビールの前には風呂に入らないと気が済まないらしい。これだから酒飲みは困る。

 昨日はビールオンリーだったけど、今日は地元のお酒を飲んでみたい。
 九州といえば焼酎である。
 鉄輪で焼酎といえば、
 「天領焼酎鉄輪」
 である。

 なにしろ鉄輪にはこの焼酎を崇め奉る「鉄輪愛酎会」というサークルまであるのである。
 味はもちろん知る由もないが、ボトルに貼られたラベルの文字がいかにもカッコよく、これは飲まねばならない、と勝手に決めていた。このまま沖縄に帰るのであればお土産で買って帰ったところながら、まだ道半ばなのでぐっと堪えた。
 でも、持って帰れないならこの場で飲めばいい。
 仲居さんに聞くと、宿にも置いてあるとのことだった。さすが地元一押しの焼酎だ。もちろん、夕食時に頼んだ。
 一本飲むのは無理だろうけど、余れば宿の方々に飲んでもらえばいいだろう。余った分だけ料金から引くといってくれたけど、そこまでしてもらうには及ばない。

 ……というはずだったのに、昨晩同様海の幸てんこ盛りだった肴を前に、酒が進まないはずはなかった。結局ほぼボトル一本飲んでしまったではないか。
 それにしても、結婚後9年もたった夫婦がいったい何を盛り上がっているのだろう。酔っ払うたびにいつも思うのだが改まらない。

 ところで「天領焼酎」の天領って、やっぱり幕府領って意味なんだよな……とおぼろに考えた。
 豊後の国といえば、思い浮かぶのは大友宗麟に代表される大友氏だが、江戸時代は幕府領になっていたのか。
 鎌倉時代から戦国のグチャグチャ時代になるまで、この地の親分だった大友氏は、いつどのように滅びてしまったのだろう。そういや大友宗麟ていえばキリシタン大名だったっけ……。
 その後たしか別の人が一瞬だけいたはずだけど、結局天領になったのだね。やっぱりこれほどの温泉極楽天国を人に与えておくのが惜しかったのだろうなぁ。

 この日も、食後しばらく経ってから露天風呂へ。
 一日の疲れがドヨヨヨヨ〜ンと体から抜けていく……。

 これまでも何度か温泉地への旅行をしてきたことはあるけれど、温泉に入っても、世間が言うほど、
 「ああ、気持ちいい………」
 と思ったことはなかった。いや、もちろん気持ちいいことは気持ちいいんだけど。
 それが今回はどうだ。
 もうすでに何度も何度も入っているというのに、ことごとく気持ちいいではないか。足腰に溜まった疲労が溶け出していくのがわかるほどに気持ちいい。
 温泉温泉と近頃では若いおねーちゃんたちがひきも切らず訪れるようになっているが、やはり温泉とというのは心身の疲れを癒すためにあるのである。疲れていてこそ気持ちいいのだ。ストレスもなく肉体的な疲労もないおにーちゃんやおねーちゃんが来るところではない。「卒業旅行で温泉」など断じて許してはいけない。
 旅行に出る前はまったく疲れていなかったんだけどね……我々も。

 心地よい睡眠の後、朝はまたすこぶる快適な目覚めだった。
 このところ愛飲している秋ウコンを携帯してきたこともあって、肝臓も絶好調のようである。
 今日は朝食後チェックアウトして別府を去るのだが、やはりここは一発朝食前に露天風呂。
 以後ずっと早朝風呂が習慣になってしまった。 

さらば鉄輪

 いよいよ鉄輪を去らねばならない。
 あまりの心地よさのため、後ろ髪を引かれるかのような去りがたさがある。
 それでもやはり、先へ進めばまた別の心地よさが待っているに違いない。鉄輪にはまたいつの日か訪れる日が来ることだろう。

 さて、今日は船で四国へ渡る。
 あるゲストから教えてもらった例の別府〜四国間のフェリーは、一日に何度も往復している。しかし、その後の移動を考えると、朝の船を選ばなければならなかった。
 ということで、9時45分発の船である。
 そのわりにはえらくのんびりした朝食、およびチェックアウトだった。その時間の船に乗るということを、あらかじめ宿の方に告げていなかったのだ。
 タクシーで行くつもりだったのでそれほど時間はかからないはずだったけど、あと10分朝食の準備が遅かったら、ややピンチだったかもしれない。
 そのうえ、最後の最後になって初めて宿のおかみさんと対面し、しかも話に花が咲いてしまった。そしてご主人が精算以外になにやら持って帰ってもらいたいプリントみたいなものをコピーしてくれているらしく、呼んでもらったタクシーを随分待たせたまま、玄関先で話しこんでしまった。

 我々と違って、明確なオフシーズンというものが存在しない温泉宿というのは、やはり大変そうである。代々続いている宿だけに、おかみさんの苦労は並大抵のものではないであろう。1週間でも2週間でも休みにすれば、その後の接客にも好影響だと思うんだけどねぇ、とおっしゃるおかみさんに、僕らは5ヶ月もの間オフなんです、というのが申し訳ない。
 我々も同じサービス業であるということでいろんな打ち明け話もしてもらえたわけである。苦労話は尽きないものだ。
 それでもやっぱり、とにかくこの温泉閣さん、すばらしい宿だった。1ゲストとしては、やはりいつまでもこのままあたたかい宿として頑張ってもらいたいところである。
 再び鉄輪を訪れたなら、迷うことなくここに泊まろう。今度はグレードアップの黒砂糖を持って…。

宇和島運輸フェリー

 なぜか沖縄よりもことごとく元気なヤシの木の並木が一直線に続く道が、九州横断道路、やまなみハイウェイである。この道をまっすぐ行くと、車ならものの5分で海になる。
 滞在中さざなみ一つたっていなかった別府湾は、きっと年がら年中スーパーベタ凪ぎなのであろう。わりと大きな船が留まる港なのに、防波堤はささやかなものだった。
 ややギリギリに到着したとはいえ、シーズンオフなので
 「ヴェッ?満員??」
 なんて事はなく、ターミナルで宇和島運輸フェリーのコーナーに行くと、すぐさま乗船券を買うことができ、すんなりと乗船できた。
 最近就航したばかりの「えひめ」号は、たった2時間余の航海にしては大きな船だった。煙突の「宇」のマークが光っていた。

 前回の旅行でスイートルームを満喫してしまった我々は、もう2等船室などに乗れない体になってしまっていたが、2時間ほどなので、雑魚寝部屋の2等で問題はない。フフフ。
 でも船内はなかなかに洒落ていて、雑魚寝部屋以外にも歓談用のソファーコーナーが数ヶ所あったり、3階のデッキにはスカイラウンジという室内展望デッキがあった。

 このスカイラウンジ、テーブルセットやソファーがあって、しかも禁煙。静かだし混んでいないし、こりゃ乗船中ずっとここにいよう。
 ここは意外に穴場だったらしい。我々のほかは、夫婦らしきカップルが一組いただけ。広いスペースにたった4人。しかも左右対称の室内だったので、片側をそれぞれ好きに使うことができたのだ。2等料金で特等にいるような妙な満足感を味わえた。

 おかげでゆっくり本を読むことができた。
 これから道後温線に行く。
 松山といえば「坊っちゃん」である。
 めったに名作文芸物は読まない僕ながら、この「坊っちゃん」は珍しく何度か読んでいて、今回松山に行くにあたり、この船内で再び読もうと心に決めて持ってきていたのである。

 大きな船体のわりに、あっけなく船は動き出した。港を出て以後も海は静かだった。
 遠ざかる陸地を見渡せば、湯けむりがどんどん小さくなっていく。
 さらば鉄輪、また来る日まで。

 さっきまで後ろ髪を引かれる思いだったはずなのに、心はもう道後温線である。

 旅ごころ 娘心と 秋の空

 豊穣の海なのであろう、漁船が数多く出漁している。
 やや本に飽きたので海を眺めていたら、突如
 「ボーッ!!ボーッ!!」
 という音が。もちろん、いくらいつもボーッとしているからといって、うちの奥さんが声を立ててまでボーッとしていたわけではない。汽笛の音だ。
 するとその直後、「えひめ」号は大きく右に舵をきった。
 普通、こんな旅客船で味わえるような急旋回ではない。
 一瞬、「えひめ」という船名が潜水艦との衝突を想起させた。
 何事やあらん、と思って窓外を見ていると、漁船が一隻、ダーッと通過していった。
 進路妨害だったのである。
 年がら年中客船が通っているはずなのに、ああいう人がいるんだなぁ。

 その数分後、今度は見なれた船が、韋駄天のようなスピードでさっき漁船が去っていった方へまっしぐらに進んでいった。
 海上保安庁である。
 ははぁ、この船の船長が通報して、保安庁が漁船を取り締まりに行っているに違いない。

 ひょっとして、これは船客を退屈させないためのアトラクションだったりして……。
 それはないよな。