うどんめぐり 4
第二日目の続き
善通寺
腹が満たされると、文化的なことにも興味が湧いてくるものだ。
優れた文化は、満たされた胃袋から生まれるのである。
というわけで善通寺に立ち寄った。
さすが総本山、恐るべき広さである。
まるで上野動物園のように二つに分かれていて、真中に橋渡しがあった。西院、東院というらしい。西院は別名誕生院とも呼ばれているところで、空海が誕生した地であるらしい。
特に宗旨を持たない僕だが、「仏教」と聞いて頭に思い浮かべるのはどうやら浄土真宗のようである。実家の仏壇にお経を唱えるのが浄土真宗のお坊さんだったことも手伝っているのだろうか。そのせいもあって、真言宗と聞いてもあまり身近ではない。弘法大師といえばお遍路さん、と思いつくけど、真言宗と聞いてさて、何をイメージすればいいのだろう?
真言宗といえば、やはり弘法大師、としか思い浮かばないではないか。
それほどにこの宗教にとっての空海はものすごい存在なのである。
だから、本当は旅行前にお大師様について少しは知っておけばよかったのだけれど、何度も言うように頭の中にはうどん以外に入りこむ余地がなく、結局何も知らないまま善通寺まで来てしまった。
広い境内には参拝者がポツポツいる程度で、「犬など動物の連れこみはご遠慮願います」というようなことが書かれた看板を知ってか知らずか、主のいないワンちゃんがベンチのそばでひなたぼっこしていた。
気持ちよさそうなので、僕らもベンチに座り日を浴びた。
相変わらず天気がいい。
青く輝く朝の空気に包まれ、五重の搭が空高くそびえ立っていた。
人心地ついたので、境内を散策してみた。
善通寺といえば、ガイドブックには漏れなく載っている名所なのだが、浮ついた観光客は一人も見当たらない。それどころか、境内を歩く参拝者、特にご夫人方は和服の正装である。参拝するもの、かくあれかし、というような姿。
うどん食ってきて、フィー、シアワセ……などと言って座っていていいところではないのかもしれない。
金堂から、なにやらリズミカルな音が聞こえてきた。さっき中に入ったとき、護摩祈祷の準備らしきことをしていたから、そろそろ始まったのだろうか。
どこかで聞いたことのあるリズムである。
あ、石手寺のお堂の中から聞こえてきた太鼓のリズムだ。
これは真言宗のリズムなのだな。
どれどれ、ちょっと中を覗いてみよう、と思ってお堂に近づくと、なんとこの音はお堂の中からではなかった。たしかに中では護摩が行われていたのだが、入口付近で、女性が一人、一心不乱に、、鈴のような金のようなもの(正式名称を知らない……)でリズムを奏でていたのだ。
ウムムムム……。
浮ついた心で見物をきめこんでいる場合ではなかった。
この地で我々が目にしたものといえば、手水で水浴びしていたハト、とか、でっかいでっかい楠とか、なんで真言宗のお寺に親鸞堂なんてあるの?とか、そういったことばっかりで、なんか肝心要のものは何一つ見ていないような気がする。なんか、見落としたものはないかなぁ………。
東院、西院を、ときおり腰掛けつつ巡っていると、足腰が復活してきたので再びうどんめぐりの旅に戻ることにした。
次に目指すは山下である。他にも山下があるので、「善通寺 山下」とも呼ばれている。
宮川製麺所と同じ善通寺、しかも駅から歩いて30分程度。
こりゃ幸い、ラッキーだわい、と思って地図を見たら、これがなんと駅をはさんでまったくの正反対。そりゃないよ……。
それはあらかじめわかっていたのでショックはないが、これから駅に戻り、さらに先に行かねばならない、というのはなかなかつらいものがある。
頑張って歩きつづけた。
歩きつづけるものの、歩き通しではいけない、ということを昨日学んだので、ときおり休憩をはさむ。登山者でも、1時間歩けば5分は休むというではないか。
途中駅前の広場で休み、ちょっとした腰掛で休み、というのを繰り返しつつズンガズンガ歩く。
ヤフーの地図上に見当をつけた場所は、比較的大きな通りをほぼ一直線に行けばいいだけだったので、道のりは単純だ。ただその分、行けども行けどもずっと一直線だから、思わず歌を歌いたくなる。
(「銀色の道」で)
遠い 遠い 遥かな道は
Do You Know? さぬき うどん道
道はすいてる 腹もすいてる (ボンボボンボ)
二人 二人 今日も二人
山下は 遥かな道 遥かな道 遥かな……
歌い終わっても、まだ道程の半分も過ぎていなかった。
善通寺 山下
昨日の小懸家がそうであったように、ここもあるメニューがおなじみだ。
その名も
ぶっかけうどん。
漁師が船で食う刺身料理のような豪快な名前だが、ようするにダシをかけて食うということである。
ここ山下ではそれが評判で、今では土産物屋に「山下のぶっかけうどん」というお土産うどんセットが売られているくらいである。
そのお土産ですべてがわかるくらいならなにもここまで歩いては来ない。
腰が砕ける思いまでして。
ああ、もうそろそろしんどいぞ、と思い始めた頃、大きな交差店に出た。すぐそばに、目指す山下があった。
見かけはなんてことのないドライブインである。
国道の脇にある札幌どさん子ラーメンとなんら変わらない。
でも、その中には………。
駐車場にはたくさん車が止まっていたが、まだお昼前だったので、余裕で座れた。
一般店なので製麺所に入るようなプレッシャーはなかったものの、場慣れた人なら普通にわかる端的な用語の一つ一つがよくわからない。わからないけどとりあえずぶっかけ、というと、
「熱いのでいい?」
と言われた。何が何やらわからなかったが、はい、と答えて待っていると巨大な徳利がやって来た。
「?」
辺りを見渡すと、各テーブルに徳利が置いてある。
ダシだった。
熱いの、というのは熱いダシ、ということだったのだ。
ああ、それだったら冷たいのが良かったなァ、と、別にそれほど残念ではないけど口にしたら、うちの奥さんは
「だったら熱いのでいい?って訊かれたときに冷たいのって言えば良かったのに」
クヤシイことに、彼女は意味がわかっていたのであった。
そうこうするうちにうどんが運ばれてきた。
さあ、ダシをぶっかけよう!
…………ム、ムズカシイ…!!
徳利の首のところに針金が巻きつけてあって、器用に取っ手状に作ってあるのだけれど、それを持って果たして無事ドンブリの中にダシを注ぎ込むことができるのかどうか………。軽快にやるにはなかなか技術がいりそうなのである。
仕方がないので、そおっとそおっと注いでみた。こぼれることはなかったが、「ぶっかけ!」というほどの勢いはなかった。
でも。
そんなことはこの味の前にはさしたる問題ではない。
うまいのである。麺もうまけりゃダシもうまいのである。
やや細めのくせに、コシはありあり、表面はツヤツヤ。上と下の歯が互いにガッツポーズをしたあと握手を交わすくらいに感触の良さに感動し、のどは思わず
「グルップ―」
とヨロコビに震えた(そりゃハトだって)。
こんなにうまけりゃ、そりゃお土産セットになるだろう。
ちょっと昼飯に、と車でピュ―ッと来て、一杯250円(小だが)。もちろん地元の人はうどんだけじゃなくて他にオデンなども食うけれど、それでも安いぜこのヤロー!いいなぁ、讃岐の人たちは…。
これが冷たいダシになると、さらに恐るべきコシになるという。熱いダシでものすごいと思っているのに、恐るべきコシとは、いったいどんなことになるのだろうか。食ってみたいなぁ。
ここでも、たった一杯、それも小で済ませてしまうのがもったいない。ああ、このままうどんを食い尽くしてしまいたい………。
いったい何度この誘惑と戦えばいいのだろうか…。
あるノーマーク店(あえて名は伏せる)
腹8分目というのは、健康にはいいかもしれないけれど、続けすぎると精神衛生上よろしくない。
おまけに食っているものがうどんだけである。動物としての本能が食を要求する。
というわけで、もう一軒周ることにした。
どうせ駅まで戻るのである。駅前の店を逃す手はなかろう。
駅前なのになぜに2の次3の次になったのかというと、恐るべきさぬきうどん、うまひゃひゃさぬきうどんいずれにも載っていない店だからである。
ただ、恐るべきさぬきうどんの出版社が6匹目くらいのどじょうを狙って出した「さぬきうどん全店制覇攻略本」なる本が宿にあって、それに目を通していたら善通寺駅前に一軒あることに気づいた。
3店目まで足を運ぶかどうかわからなかったけど、胃袋がうどんうどんと言ってうるさいので、再び踏み切りを越え、目指す店へと向かった。
ここで、一抹の不安を感じる。
というのも、もし、もしである。もしこのノーマークの店に入って、今までとまったく同じヨロコビとシアワセを感じてしまったら、僕はいったいどういうことになるのだろう??今まで本に書いてあるのと同じくらい、いやそれ以上のヨロコビを感じてきたつもりだったのだが、もしこの店で同じくらい感動してしまったら、僕はつまり讃岐地方のいかなるうどん屋に入ろうともそれで充分、という程度の味覚しかない、ということではないか。だとしたらこれまでの道のりっていったい………。
不安に追い討ちをかけるように、全店攻略本に載っていたこの店の紹介文が頭をよぎる。
「手打ちにこだわり続けて百年余。4代目店主が腕をふるう超老舗。伝統の技で仕上げた麺とダシは郷愁の味わいだ」
ね、うまそうでしょ?
しかもお昼時。もっともうどんが消費される時間帯。店内はたしかに混んでいた。
ぶっかけだとかしょうゆうどんとかいう今風のメニューがなかったので、湯だめという名の釜揚げを頼んだ。恐る恐る口にして見る。このときすでに、どうか美味しくありませんように、と祈っていたかもしれない。
ツルツルツルツルツル………。
ゴクッ。
いやはや。
多くは語らないが、あっちこっち、歩きまわっている甲斐があったというものだ。
湯だめ状態である、ということを20倍にして差し引いても、このブツ切れ的軟弱さはなんだ、このダシの貧弱さはなんだ!(あ、多くを語ってる……。)
郷愁の味わいどころか、思いっきり哀愁を感じてしまうではないか。
250円という値段だけが心に優しく微笑みかけてくれた。
良かった良かった。
まずくて喜ぶというのも変か。
踏み切りの向こう側の四国電気(当地では略して「よんでん」という)の職員が、わざわざ車で乗りつけていたけれど、車で来るくらいなら反対側にもう少し行くだけで山下があるじゃないか。
これは好みの問題なのだろうか。大きなお世話とは思うけど、僕なら絶対山下まで行くぞ。
|