マサイマラ
マサイマラを含むこのあたりいったいの土地は、マサイランドと呼ばれている。
ずっと牧畜を続けているマサイ族が、400年ほど前にこの土地に牛とともにフラリとやってきて以来いたく気に入り、以後そういうことになったらしい。
水納島にも、僕が勝手に名付けているシラドランド、ジュンコランドというのがあるが、当然ながらその規模は比較するべくもない…。
そのマサイランドの一画を占めるマサイマラ国立保護区は、僕が以前からその名を知っていたくらいだから、アフリカを代表する動物の王国の王様である。
ケニア全体の地図を見るとマサイマラはホンの小さな区域にしか見えないけれど、大阪府と同じ面積なのだ。
とにかく広い。
その南部はタンザニアの国境となり、国境を越えると、タンザニアのセレンゲティ国立公園になる。
何万頭ものヌーの大群が、マサイマラとセレンゲティの間を季節ごとに大移動するという、ドラマティックな話を初めて知った子供のとき以来、僕は長い間、アフリカ大陸の西端から東端くらいの距離を驀進し続ける…くらいのことを想像していた。
ところがなんのことはない、両者は川を挟んだお隣さんだったのだ。
こういった国立公園や保護区は、動物たちにとってかけがえのない土地であることはもちろんのこと、ケニアにとっても重要な土地である。今やサファリはケニアの重要な外貨獲得源なのだから。
そんな土地のひとつ、マサイマラ国立保護区で見られる動物たちは、ケニア一といっても過言ではないほどに豊富だそうで、ネット上で見られる誰の旅行記を読んでも、どの旅行社の宣伝を見ても、ライオンさんキリンさんゾウさんチーターさんのオンパレードだ。
そのマサイマラに、我々はついに到着してしまった。
期待はいやがうえにも高まる。
このキチュワテンボ空港には、我々が泊まるロッジのスタッフが迎えに来てくれていた。
聞いていたのだろうけれど知らなかったことに、お迎えはロッジの日本人女性スタッフだった。名をイチハラさんという。
おお、久しぶりに見る日本人。
我々が利用するロッジは日本人の経営するものなので、言葉の問題はまずないという話だった。だからアラスカに行ったときにヒサさんに会うまでのような心細さはもともとなかったものの、これから右も左もわからないところへ行く以上は、やはり心強かった。
この草原空港からロッジまでは、車で30分ほどだという。他にゲストがいるのかと思いきや、この飛行機で到着したそのロッジのゲストは我々二人だけだった。
運ちゃんはヘンリーさんだそうだ。
彼の操るトヨタのランドクルーザーに乗り込み、一路宿を目指した。
で、いきなり……
シマウマだ!!
バッファローだ!!
インパラだ!!
それらはごくごく普通に見られる動物であると聞いてはいたけれど、いやはや、ここまで普通にいるとは……。
海を愛する当サイト読者にわかりやすくいうならば、それらの草食獣はツノダシやトゲチョウチョウウオ、もしくはルリスズメやソラスズメのようなものと思っていただければいいだろう。いや、量から言えばキホシスズメダイやグルクン、もしくはキンギョハナダイあたりだろうか…。
多くのベテランダイバーのツノダシに対する思いと同じく、初めて会ったときは感動するものの、いつしか見慣れた当たり前の生き物になり、しまいには見向きもされなくなる…という立場に彼らはあるようだった。
ゲストが我々だけだったので、我々が子供のようにはしゃいでそれらの動物たちを見るのにあわせ、ヘンリーさんはたとえそれがツノダシであっても、ところどころで車を停めてくれた。
この仕事を6年もしているとおっしゃるイチハラさんは、とっても動物たちについて詳しかった。
バッファローにまとわり着いているウシツツキに我々が興味を示すと、すぐさま和名を教えてくれたりする。
このバッファローの耳元にいる鳥は、その名をアカハシウシツツキという。
けだるい午後のひととき、のんびり寝そべってくつろいでいるバッファローにまとわりついている。体についた虫や何かを食べているのだ。いわばサバンナのホンソメワケベラである。
ああ、ついに動物さんたちが次々に登場してくる段階になってきた。
読者は覚悟せねばならない。
我々はかなりマニアックなのである。だって、いきなりファーストコンタクトから、ウシツツキに嬉々として注目するお客さんがどれほどいるというのだろうか……。
ちなみに空港からロッジまでの道のりは、厳密にいうとマサイマラ国立保護区内ではない。保護区に入るゲートの外に位置しているのだ。
けれど動物たちには保護区とその外との境界なんてあまり関係はない。せいぜい、マサイが放牧する牛がいるかいないか程度の違いしかないだろう。
このバッファローたちが普通にたむろしている傍らで、マサイたちが歩いていたりすることもある。
バッファローなんて、たかだか牛の親戚くらいだろうと思いきや、あとでさんざん聞くことになるのだが、サバンナで最もデンジャラスな生き物であるらしい。
人間にとってアブナイのは、ライオンやヒョウやチーターといった肉食動物ではなく、ひとたび怒れば何をするかわからない巨大草食獣であるようなのだ。
このバッファローも、ブチッとキレたら迷わず突進、人間など、突撃されたらひとたまりもないという。トヨタのランクルごときやすやすとひっくり返してしまうそうだ。
巨大なオスなんて、ピエールと呼びたくなるくらいの髪型(角型)をしてのっそりしているように見えるのに、アフリカで見られる草食動物のうちで、最も気が荒いといわれている。
オツムは弱く、それでいて体はでかく、おまけに気が荒い、という、あんまりお近づきになりたくはない部類のキャラらしい。
それを聞かされつつ巨大なオスを正面から眺めると、思わず首をすくめるほどに威圧されてしまった。
野生というのはオソロシイ。
さて、この季節は、すでに何万頭ものヌーたちは隣のセレンゲティに大移動をしたあとになっているはずだった。
ヌーといえば、その名が通り名になる前はウシカモシカなどと呼ばれていたこともある、顔が牛で体つきがカモシカという、中途半端な容姿の動物だ。
老若男女あらゆる世代があらゆる肉食動物の餌になるという、まるでハルク・ホーガンがアックスボンバーを武器に来日したときの長州力、もしくはスタン・ハンセンが全日マットへ乗り込んだときの天龍源一郎のような、サバンナの超やられ役的動物である。しかしアテウマではなくウシカモシカなのだ。
他のあらゆる草食動物たちが、自分自身を守るためにいろいろと工夫を凝らした作戦を展開しているというのに、ヌーときたらただただ数で勝負するタイプだ。食われても食われても、埋めよ増やせよでその無限にも近い個体数をずっと維持しているのである。
夏のスカテンのようなヤツ………。
そんなヌーを是非見てみたかったのだが、前述のとおりこの時期はほとんどいなくなっているはずだった。
ところが、サバンナを埋め尽くす群れというほどではないが、そこかしこでヌーが群れているではないか。
聞けば、今年はセレンゲティのほうで雨が降っていないため、ヌーの大移動が例年のようではなく、マサイマラに残っているヌーがたくさんいるということだった。
そのため子育てはたいていセレンゲティですることになるはずなのに、こっちに残って育てることにしたのか、ヌーの子供が見られたりもした。
チビヌー
この時期にヌーをたくさん見ることすらラッキーなのに、子ヌーともなるとそうそう見られるものではないらしい。
うーん、僕たちってやっぱりついているんだ。
いやあ、ただ空港からロッジに行くだけの道のりでたっぷり堪能してしまったなぁ…。
「いえいえ、クライマックスはこれからですよ!」
イチハラさんが景気のいいことをいってくれた。
動き始めて10分ほどの道のりでこうなのだから、その話に僕たちは深く大きくうなずいたのだった。
やがて車は山道に入っていった。
目指すロッジはマサイマラのサバンナを一望の下に見下ろす丘の上にある。
オロロロというその丘をランクルは進む。
サファリカーの天井は大きく切り開かれて身を乗り出せるようになっている。せっかくだから、でこぼこ道にもめげず、立って体を外に出してみることにした。
いやあ、アフリカの風だ!!
気持ちいい…………。
斜面のそこかしこにも、インパラやシマウマがいた。
マサイの牛たちもたくさんいる。
そしてふと斜面を見上げると、まるでもののけ姫に出てくる猩猩たちのように、我々を見下ろす者たちが。
バブーン(サバンナヒヒ)である。
雑食の猿で、時には小さな草食獣を襲って食べることもあるという。
ロッジの敷地内にも勝手に入ってきて、鍵のかかっていないドアだったら普通に開けて中に入るというではないか。
ムムム、やるな、猿。
でも、このサイズだったらいざとなったら勝てるかな。
……と、この時はタカをくくっていたのだが。
翌日敷地内でこのバブーンのボスを見て、その考えを改めた。
ボスはでっかいのだ。
本気を出されたら、負けるかもしれない……。
たかだか30分の道のりですっかり堪能した我々の前途は、今木々の葉をきらめかせているアフリカの太陽と同じくらい、燦々と輝いていた。
そう、この時は輝く太陽の下だったんだよなぁ……。 |