湯たんぽの夜、手が千切れる朝
サファリツアーの朝は早い。
朝というよりも、まだ外は夜だ。
午前6時に出発するので、その前までにはロビーに来ていなければならないのである。基本的になにごともポレポレなのだが、こういった集合時間はわりとシビアであるようだ。
初めて迎えるサバンナの朝は寒かった。
ロッジの部屋にはエアコンなどあるはずはなく、この寒さは部屋の中にいてもけっこうこたえるくらいだ。
けれど心配御無用。
ロッジでは、各ベッドごとに湯たんぽを用意してくれている。我々が夕食を終えて部屋に戻る頃には、布団の中はあったかホカホカあーこりゃこりゃという状態になっていた。
これがすこぶる暖かい。
その暖かさがちゃんと朝まで保つのだから、湯たんぽの実力はたいしたものだ。
布団の中が暖かかっただけに、外の寒さが余計身にしみる。
そんなゲストのために、ロビーの脇にある図書コーナーでは、セルフサービスで紅茶や珈琲を飲めるようにしてあって、クッキーなども軽く食べられるようにしてくれてある(朝食は、サファリから帰ってきてからになる)。
そこにはドライバーたちもやってくるので、図鑑などを見ていると自然とそういう話になり、いろいろ教えてくれたりする。英語だから半分ほども理解できていないけれど、それはそれで楽しい。
また、彼らがいかに動物たちについて詳しいかということがよくわかる。それは机上の学習というよりは、実際に目で見てきたことに基づいているから、人によって話が違うというのもまた面白かったりする。
そうやって過ごしているうちにやがてゾロゾロとゲストが揃い、本日の車の割り振りが行われる。
昨日同乗した方々に聞いたところによると、日によって違ったりずっと一緒だったりといろいろあるようで、ドライバーによって随分変わるという。
そりゃそうだ、ヘンリーさんのようなノリだったら楽しいだろうけど、みんながみんなそうではないだろう。
さて、今日のドライバーは誰だろう?
ヘンリーさんだった。
助手席に座るスタッフも、昨日と同じデビットだ。
同乗者は、昨日午後到着されたNさんご夫妻。昨日まではアンボセリ国立公園で過ごしていたそうだ。
昨日同様、ヘンリーとデビットが自己紹介をしたあと、ランクルは発進した。
あたりはまだ真っ暗だ。
けれど道路脇のブッシュでは、インパラやシマウマ、ヌーたちがすでに朝食タイムに突入していた。
マサイたちの普通の生活の場の傍らに、こういった動物がこれまた普通にいる。
こんなにたくさんいるのだから、普段からマサイたちはこれらの肉を食べているのかというとそうではないらしい。彼らはあくまでも放牧の民であって、狩猟民族ではないのである。
だから、放牧している牛を食べこそすれ、これら野生動物に手をつけることはまずないらしい。
でも、これらの動物の中でいったいどれが美味しいのかとっても気になる。
ヘンリーに聞いてみた。
「インパラだ。インパラはとっても美味しいよ」
それはラムのような感じなの?
「おお、そうそう、ラムに似ている。とても美味しい」
ラムに似ていると聞くと、つまり美味しくないのかと理解する人がいるけれど、ナイロビヒルトンの稿で述べたとおり、僕たちにとっては松阪牛のような脂ギッシュ人工肉よりも圧倒的にご馳走だ。
食ってみたい!!
ではシマウマはどうなのだろう?
「シマウマの肉はとても軟らかくておいしいのだ」
デビットが答えてくれた。
なるほど、さすがシマウマ。<なにがさすが?
ピコピコと短いしっぽをフリフリする様子がとってもかわいく見えていたインパラや、セクシーダイナマイト的ヒップが魅力的だったシマウマが、途端に「美味しそうな動物」に変身した。
サバンナの動物を見て「美味そう…」などとライオン化してしまうのは、ヒトとしていかがなものなのか、そのあたりのことはこの際深く考えないようにしよう。まだ朝食前だし……。
そういえば昨日の帰り道で、この谷底のほうに昨日ゾウさんが群れているのを見たっけ。
それをNさんに伝えると、彼らも草原空港からロッジに向う途上で見たそうだ。さすがに一夜明けてもういなくなっていたけど、こういう山すそにまで普通にいるのだ、ゾウさんは。
このNさんご夫妻とお話をしていると、意外な事実が判明してしまった。
なんとご主人は大阪府高槻市出身、奥さんは埼玉出身だというのである。
我々とまったく同じ組み合わせ。
はるばるアフリカまで来て、高槻市の話をすることになるとは思いもよらなかった。お互いに。
ランクルは進む。
少し窓を開けて外の空気を浴びてみた。まだまだピシッと引き締まるほど空気は冷たい。
やがてオロロロの丘を降りきる頃には、東の空に淡く朝の気配がやってきた。
そして地平線は……
まさに大地の目覚め……
なんてきれいなんだろう……。
大地の夜明けだ。
人類発祥の地で眺める夜明けは、地球規模の迫力である。夜明けが背負っている時間の重みがまったく違って見えた。
この夜明けを部屋から眺められたら素晴らしいのに。
ロッジは東に向いている崖の上にあるから、夜明けを見るには抜群のロケーションなのである。
しかし、サファリに行くならそれはあきらめなければならなかった………。
朝は寒いのでロッジを出発する時点では閉じられていたシートを、オロロロゲートで車を停め、シートを開ける。
オロロロゲートに到着する頃には、東の空はかなり明るくなっていた。
ゲートをくぐれば、サファリの開始だ。
天井が開いたので、身を乗り出してサバンナの空気を吸ってみた。
そこらじゅうにバッファローなど様々な動物たちのウンコがゴマンとあるはずなのに、肺に染み渡る空気は純度の高いクォーツのように透き通っている。
車は悪路を走るから、備え付けられているバーを握っていなければ体が安定しないんだけど、このとき、手は千切れそうなほどに冷たくなる。
それほどに空気は冷たい。
昔、冬の動物園でアフリカの動物たちを見るたびに、本当はこんな寒さを知らないんだろうに…と同情したものだったが、実は彼らはけっこう寒い世界で暮らしていたのだ。
朝焼けに包まれたサバンナをランクルは行く。
国立保護区内にも幹線道路が走っていて、遠くタンザニア国境まで続く道などがズドンと延びている。その幹線道路からサバンナの草原に入っていく轍がいくつもあって、そういう道を利用して車は動物たちのプライベート空間に進入していくことになる。
ふと東の空を見ると、なんとものどかな物体が空を飛んでいた。
バルーンサファリの気球だ。
夜明け前に気球の準備をしていたのを遠目で見たときもなかなか幻想的だったけど、こうして朝日をバックにポワポワ浮かんでいるのもなかなかに優雅だ。
そういえば、昨日同乗していた女性二人連れは、この日バルーンサファリをするといっていた。
あれに乗っているのだろうか?
このバルーンサファリは他のロッジが運営していて、希望すれば定員オーバーになっていないかぎりどこのロッジからでも参加できる。
夜明けをバルーンから眺め、サバンナの動物たちを神の視点で観察し、着地したあとはシャンペンブレックファーストと、どうにもこうにも食指が動いてしまう楽しいアトラクションなのだ。
が。
たとえ現地で申し込んでもけっこうなお値段なのだった。
だから僕たちは迷っていた。
せっかく来たからにはやってみたい。話のタネにはもってこいだもの。
でも、先立つものはともかくとして、まずはサファリをちゃんと堪能してから考えることにしよう。
さあて、今朝の動物たちは??
いきなりチーターの親子に遭遇した。
小川というにはあまりにも小さな水場があって、ときおり水を飲みつつスタスタと歩いている。
昨日見たものとは違う個体のようだ。この母ちゃんチーターには、耳にタグがついていて、双眼鏡で見てみると「151番」と読めた。
カッコイイ母ちゃんに対し、子供のほうはとってもかわいい。1頭だけってことは、兄妹はすでに生命を落としているのだろう。子チーターよ、気高く元気に生き延びろ!
チビチーターのお次はチビライオンだ。
母子の群れがドデンとくつろいでいた。きっと夜の間に食事を済ませ、のどかな食後のひとときを迎えているのだろう。母親が寝転び、子に乳を飲ませていた。
このチビライオンのかわいいこと!!
1頭持って帰りたくなった。
ちなみに、こういう状況で観察している。
ライオン家族(円内)とご満悦のうちの奥さん
同乗のNさんがいうには、たしかにライオンに出会える機会は他所ではそんなには多くはなかったらしい。彼らはこちらに来る前はアンボセリ国立公園に滞在していたから、我々と違って比較できるのである。
ただし、ライオンはいなかったかわりに、草食動物の数がとても多かったという。
ライオンがこれだけいて、この草食動物の数で成り立つのだろうかという疑問を口にされていた。
なるほどなぁ…。
ひょっとして、ライオンがいるから草食動物たちは危険域に入ってこなくなり、ライオンを目当てにしていると逆に草食動物の大群は見られなくなるってことなのだろうか?
海の中で何が好きって、グルクンやハナダイたちの群れである僕にとっては、もちろんライオンも見てみたい動物のひとつながら、サバンナにドドーンと広がる草食動物の群れを見てみたいなぁ…。
ドドーンと広がってはいなかったけど、草食動物だって普通に見られることは見られる。
まだサファリに出たのは2度目だというのに、すっかりおなじみになったトピ。このトピを双眼鏡で見て、僕たちはサバンナのシンジツを発見してしまった。
トピの目はヤギ目である。
ね?
昨日の雨が太陽に照らされて水蒸気になっていくせいか、サバンナの朝は、晴れているのに水墨画のような景色だった。靄が低く立ち込めているのだ。
そんなところに動物が立っていると、それがなんであれ絵になる。
エランドもまた、かっこよかった。
角の生えた生き物って、皆同じ仲間なのかというと実はそうではないらしい。
難しい話になるとややこしいので触れないが、でもウォーターバックの瞳を見れば、それがトピとは一味違う動物であることが一目でわかった。
なにやら賢者の風韻さえ漂わせているじゃないか。
静かに現れ、スクッと立っている姿は、まるでシシガミ様のようだ。
朝靄をバックにたたずむキリンさんやゾウさんに是非出会いたかったのだが、ゾウさんもキリンさんも遠いお姿しか拝むことはできなかった。
昨日はツノダシ級扱いだったゾウさん、今日ならベテランダイバーはいないからじっくり観られるかなと思っていただけに、遠くに見つけたときは「ゾウさん!!」とつい喜んでしまった。
ああしかし、
「…ちょっと遠い」
ヘンリーが残念そうにいう。
時間的に、今から行くにはゾウさんの場所は遠すぎたのだ。ほら、やっぱり観られるときに観ておかないと……。
朝飯前のサファリは、出発時はあれほど寒かったのに、終るころには日も高くなり、ポカポカ陽気になってくる。
朝方のあの冷え込みが嘘のような日差しが、すぐそこまで迫っていた。 |