院長に揉んでもらってすっかり心地よくなった僕は、身も心も軽くなった途端に腹が減った。
お馴染みの那覇とはいえ、一応旅行中なわけだから、いつものように沖縄そばだ、パスタだとなったら芸がない。なのでこれまで行ったことがないところを目指した。
目星をつけていたのは、丸市ミートの2階にあるベトナム料理店DAO(ダオ)。
治療院ナチュラル付近の駐車場に車を停めたまま、歩いていける距離にあった。
今のように東京かそこらのちょっとした近郊都市のようになってしまう前の那覇市は、今よりも遥かにアジアンチックだった。現在の観光客にとっては沖縄といえば琉球文化かアメリカンか、ってイメージかもしれないけれど、少なくとも我々が学生だった頃はもっともっと多重構成になっていて、那覇市ともなればちょっとしたアジアの都会って雰囲気が濃厚だった。
聞くところによると、石垣島にもその昔はチャイニーズが一大勢力になるほどに隆盛を極めていたらしいのだが、いつの間にかそちらの文化勢力は後退してしまい、今やナイチャー文化が島を席巻しているという。
那覇市も似たようなものになっているわけである。
学生時代にあった中華料理屋が、気がつくとひとつ、またひとつと消えていっているものなぁ……。
そんななかにあってこのベトナム料理屋さんは、かつての那覇市を彷彿させる………ほど目立っているわけではないものの、一歩店内に入ればそこはすっかりアジアンワールドだった。
ここで、僕はベトナムカレー、うちの奥さんはフォーというベトナムの麺を頼み、当然のように生春巻きセットをつけた。
おそらくは日本人向けに味付けされているだろう。しかし、スパイスが特殊なのかカレーがまた一種独特の色と味で、かなり量は多かったというのにキレンジャー化したおかげでペロリと平らげてしまった。
一方、フォーもなかなかやる味だ。
なんでも、米から作った麺だそうで、ようするに生春巻きの皮=ライスペーパーを麺状にしたものなのだろう。
これがまた、いかにもベトナム!って感じ満点で、普段麺類といえば沖縄そばやパスタという強力粉製の麺にカツオもしくは豚出汁、もしくはヨーロピア〜ンテイストに慣れ親しんでいる舌にはかなり新鮮だった。
米製麺もなかなかやるではないか。
そうだ、このまま小麦価格が異常高騰を続けるのであれば、日清もマルちゃんもいっそのこと麺は米から作ればいいのだ!!
モミモミしてもらって食事もして………こうなりゃあとは酒だ!!といいたいくらいに心地よくなったけれど、まだまだお天道様は頭上高くで頑張っている。ここはひとつ、午後は少し文化的に過ごすことにしよう。
前日から公開が始まった「アメリカンギャングスター」は、是非観たい映画のひとつだった。
なんていったって、デンゼル・ワシントンとラッセル・クロウの競演である。普通だったらありえないくらいの豪華キャストだ。そして監督はリドリー・スコット。
もう、監督とこの出演者を観ただけで勝手に傑作であると確信した僕は、予告すら観てもいないのに人に勧めまくっていたくらいだから、公開から随分日が経って手垢がつく前に観ておきたかったのだ。
というわけで、おもろまちのシネマQにてアメリカンギャングスター。
…………いやあ、面白かった。
まったく予備知識のなかった僕は、この話が実話に基づいているということすら知らなかったのだけれど、冒頭に出てくる Based on ホントの話………っていうテロップが、ストーリーにより一層の重力を加えてくれた。
名優たちもいかんなくその存在感を発揮。
後半、ひょっとして「ヒート」のアル・パチーノとロバート・デ・ニーロみたいに、一緒に撮っているのか別撮りなのか、結局よくわからないままの絡みで終了してしまうのか???と一瞬あせったけれど、この物語は、実はこの終盤の二人の共演のためだけにあるようなおまけシーン部分が、最も熱い熱い男の友情物語なのであった(最後にテロップで流れる後日談をこそ、二人の演技でじっくり観たかった気もするけど………)。
てゆーか、これって互いの側の話だけでも一本の映画になるほど面白い話ではないか。
「スカーフェイス」と「アンタッチャブル」を足してさらに2をかけたくらいのボリュームだ。
わかりやすく言うなら、薩摩の西郷はんと長州の桂小五郎をそれぞれ主人公にして、黒船来航くらいの幕末から双方を等分に描いていって、クライマックスが薩長連合成立、倒幕はエピローグ、といった感じである。<さらにわからん??
なんといっても、最終的に薩長連合がなったおかげで倒幕あいなるわけだけれど、慶喜を殺さずに無血開城させた、というあたりの報復の仕方が素晴らしい(未見の方のためにたとえ話にしてあります)。実話が基とはいえ、あの結末へのもっていき方が、そんじょそこらのB級ギャング映画とは雲泥の差ってところなのだろう。
ところで、この「倒幕」という結末、日本じゃなかなかできないだろうなぁとつくづく思う。
ああいうふうに組織の腐敗に大鉈をふるえるというのは、やっぱり多民族国家ならではなのだろうか。同じアメリカ人とはいえ、肌の色も先祖の国も信じる宗教も多種多様となれば、日本人のように「まぁまぁ…」という丸く納めたがる感覚とは別のものが育つのかもしれない。
そういう意味では日本も、明治維新直後の藩閥政治時代のほうが、今なんかよりも圧倒的に腐敗に対して大鉈をふるうことができたのではなかろうか。
そもそも廃藩置県に始まる武士たち自身による武士たちの特権の返上というのは、ようするに巨大な既得権や利権を自ら放棄するわけである。道路族が道路特定財源に固執しまくって醜い姿をさらすような今の日本では、絶対にありえない。
だからといってそれに対して同属である他者が大鉈をふるうこともできず、後に残るのは結局役に立たない妥協の産物だけ、ということになるわけである。
今もなお藩閥政治だったら、世の中もう少し違っているんじゃなかろうか………。
……んなわけないか。
とにかく、アメリカ人はバカだバカだと思うことはよくあっても、こういった「大鉈」を振るう力があるのだという姿を見せつけられると、「国」としての力を見せられたようでなんだか悔しいなぁ。
ともかく、マッサージで体をほぐし、いい映画を観て心をほぐされ、なんとも心地よい。
こういう日に飲むお酒は美味しいと相場は決まっている。
さて、今宵は…………? |